瀬戸蔵は2階に瀬戸蔵ミュージアムがある。瀬戸の歴史がわかりやすく展示してある。昔、陶生病院の横にあった歴史民俗資料館を廃止し、博物館的に瀬戸蔵ミュージアムに集約された。
戦後、尾張瀬戸駅から堀川まで走っていた瀬戸電だ。えっつ?堀川と思う方も多いと思う。自分もその一人だった。
鉄道150年ということで色々なところで催しがされた。
明治のはじめ中央本線をどこを通すかもめた時代があった。瀬戸村が有力であったが、地元の人達の反対で多治見から名古屋へのコースが決まった。理由は単純で蒸気機関車は振動もすごく、瀬戸物が割れてしまうということらしい。
瀬戸の焼き物は、当時は馬で運ばれていた。中馬街道はその名残りだ。大量の陶磁器を運ばなければいけない。人馬だけではたかがしれている。反対したことはとんでも無く大きな失敗だったことに気づいたときには後の祭りだった。
名古屋港に運ぶため、堀川まで鉄道をなんとか敷いた。船で港に、そして大型船でアメリカやヨーロッパへ輸出された。なんと堀川まで行くのに、名古屋城のお堀の中を、緑の電車は走っていた。その頃は貨物列車もちゃんとあったのだ。
明治・大正・昭和の瀬戸は絶好調。トンネル窯なる100mもんお長さの窯があったほどだ。『宵越しの金は持たぬ』と平気で言っていた瀬戸の経済。使い果たしてもう何も残っていないが、それなりに庶民は頑張っていることは確かだ。