60年前に住んでいた豊橋。住吉町の我が家から旭小学校に通学していた。住吉町に行くために運動公園に車をとめ歩いた。その時、自分の歩いている道が真っ直ぐにのびていることだ。交差している道も直角に交差し真っ直ぐにのびていく。子供の頃は全く気にしていなかった。子供の頃は、池見町のあたりまでしか家はなかったが、道が真っ直ぐであったことは覚えている。
坂上から東は電車通りと国道一号線に挟まれた区域だ。豊川の河岸段丘上になる。なぜこんな道ができたのか。空襲で焼けてしまった街はもっと西の豊橋の中心部だ。調べると戦後区画整理事業で大規模に行われたようだ。市民のために当時の行政は頑張ってくれていたようだ。戦後、発達した市街地なのだ。今でも戦後建てられた家屋が結構残っている。我が家もその一軒だ。
前回ものせた写真だが、左から二軒長屋と三軒長屋だ。後ろの白っぽいのは藤の花高等学校だ。どちらも外観は変わったが残っていた。
60年前のこの道路は舗装されていなく雨が降ると水たまりができる。この道は背の低い自分が大人用の婦人用自転車で練習をした。サドルにはおしりが乗らないため、フレームに腰掛けて高い位置にあるハンドルを操作する。まるでアメリカンバイクを運転しているようなスタイルだ。高学年の頃水たまりで揺れたためハンドルがつけ根から折れ、アゴに当たり大出血した。いまだにその傷跡はひげの陰になりながらも残っている。
路面の水溜りはアサリやしじみの貝殻を捨てて踏みつけならす。どの家でもやっていた生活の知恵だ。自動車も殆ど通らないこの道が子どもたちの遊び場だった。