setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

年寄りの戯言208 60年前の豊橋にワープその2

 軍都 豊橋

 あまり考えてこなかった戦争。日本において豊橋は兵隊さんの街だった。数万人の町に4000人の兵隊がいた。軍に関係する人たちまで含めると2万人もの人がいた。明治18年ころから日本軍の重要地帯だったんだろう。隣の豊川(とよかわ)市には東洋一の海軍工廠があった。豊川(とよがわ)の河口には1500mクラスの滑走路が3本もあった。

 

 そんな軍都も、戦後いっきに平和のために動き出した。第15師団や第18連隊などの軍事施設は全て学校、公園・行政施設などに作り変えられて行った。吉田城周辺の豊橋公園愛知大学豊橋校舎・時習館高等学校、市立の小中学校などに姿を変えている。昭和30年代初めの頃にはほとんど兵隊のイメージはなくなっていた。ただ、小学校2年生のときの担任の先生は、ムチ(黒板の指し棒)でお尻を叩くので怖かった記憶がある。服装も兵隊さんが羽織っている黄色い上着を着ていた。

 小学校の通学路の途中に陸軍墓地がある。ここが具体的に何なのか知らずにいた。今回60年ぶりにゆっくりと散策した。墓碑に書かれている文字でまず真っ先に飛び込んできたのは、満州の文字だ。満州事変や支那事変などの文字も多く見られた。自分の両親が生活した満州だ。自分の友人の父親も軍属として満州に渡っていた。この陸軍墓地には、日清・日露戦争日中戦争など、満州や中国で戦病死した人たちを祀っているのだ。

 第二次世界大戦後半になると、それまで満州を始めとする中国方面に関係する兵隊が多かったが、第18連隊は南方戦線に送られ、サイパンやグアムで玉砕した。しっかりと確認はできなかったが太平洋でなくなった人はここには祀られてないようだ。

 子供の頃よりは陸軍墓地は狭くなっている。東側に集められ、西半分は公園となっていた。昔は南側にも広い空き地が有り、ここで野外映写会が開かれ、屋台が並んでいた。さらにその南には池があり、とんぼ釣りをした記憶がある。

 

 陸軍墓地に祀られている人たちも、戦争は二度とやってはいけないと思っているはずだろう。