setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

豊橋 歴史民俗資料収蔵室⑦ ポン菓子

 無くなったお店の一般名詞も多くある。駄菓子屋もその一つ。自分の父親は、満州から帰ってきて仕事にしたのは、列車の運転手ではなかった。満州鉄道機関士をしていたのに全く違う世界に。父親の選んだのは駄菓子作りだった。

 自分が覚えているのは、低学年の頃は殻付きの落花生をコークスの熱で炒る。それを紙の袋に入れて糊付けしていた。豊橋の天白は洪積台地で水がなく落花生の栽培に適していたのだろう。落花生の季節ではないとウエハウスを袋詰していた。

 高学年になるとパッカンと呼ばれた米のハザしたお菓子、ポン菓子を作っていた。昔、米と交換にお菓子を目の前で作ってくれる業者が街を回っていた。父親は家で作り袋詰していた。自宅の土間に機械を設置していた。球体にできた部分に米(外米)サッカリンという甘味料を入れて加熱圧縮していた。気圧計を見ていて適圧になると口の部分を開ける。一瞬にして内部の圧力が開放される。バカ〜ンと音がして同時に米が膨らむ。最初の頃は手でハンドルを回していたが、途中でモーターを利用して回るように工夫した。ポップコーンもこの機械で作ることができた。さすがに写真や図はないので、ポン菓子 機械で検索して欲しい。

 

 収蔵室の駄菓子コーナーに、父親が作っていたものとほとんど同じニンジン型のポン菓子があった。今でも作っている人が見えるんだろう。同じような米菓子が置いてあった。父親は運搬車に乗せて問屋まで運んでいた。やがてスーパーカブに変わるが大変だったんだろう。金にはならない仕事だった気がする。70すぎまで毎日パッカーンとハザしていた。

 この収蔵室にあった自転車が我が家にあった自転車と1番似ている。今まで北名古屋山県市で見た運搬用の27インチタイヤの大型自転車とは違う。自転車にも地域性があったのだろうか。