setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

年寄りの戯言273 中馬街道を歩く会(その4)品野について

 昔の仲間に誘われて参加した中馬街道を歩く会。自分が30年も前から惹かれていた中馬街道。始まりは馬頭観音だった。品野を歩くと路地に石仏が祀られていた。品野5丁目に社がつくられ馬頭観音が集められ、赤や白に塗られ、毎年お参りがされていた。

 そこから街道というものに関心が出てきて調べ始めたのが中馬街道だ。安い一眼レフを購入し撮り始めた。

 当時品野について軽く考えていたが、調べれば調べるほど面白い。ほんの片田舎の町だという勝手な想像がぶっ飛んだ。品野町は戦前のものらしく威厳がある(人家に隠れてほとんどわからないが)。今は瀬戸信用金庫がある場所には、戦後すぐミュージックホールができジャズバンドが生演奏をしてダンスを楽しむ若者が集まった。パチンコや銭湯は当たり前、今の品野の若者には考えられないほど賑わっていた町だったのだ。昭和30年代国会で当時の総理の発言にも出てきたねこなし皿という有名な焼き物は中品野で始まったのだ。

 30年ほど前、品野の焼き物の問屋を訪れた時、品野の焼き物ではなく更に瀬戸物でもなく美濃焼を取り扱っているという。30年以上前のことだ。これには大きなショックを感じた。品野焼という単語すらなかった。

 品野という地域は、信長の時代に、制札を出して瀬戸物を守ったり、その後信長が岐阜に拠点を置くとで美濃に窯焼きが移ってしまう。焼き物づくりは衰退する。瀬戸山離散だ。江戸時代になると尾張藩の初代藩主徳川義直(家康の9男)が加藤新右衛門を呼び戻し、再び焼き物作りが盛んになる。新右衛門の子孫は代々、『織田信長の制札』を守っている。

 自分にとって品野が特別な存在になったのが、柴田酒造だ。品野祇園祭の中心にあった酒蔵だ。明眸といえば思い出してくれる人もいるだろう。若い頃ここで試飲させてもらった冷酒(大きな酒樽の中から長い柄杓でコップに注がれた透明で濃厚な冷酒)を知った時、これが本当の日本酒なんだと思った。おかわりをする。アルコール度数の高い冷酒をコップ酒で頂戴した。なんと贅沢な瞬間だっただろう。その日は、職場に泊まらざるを得なかった。馬子たちも、下品野まで下りてくれば美味しい酒が飲めたんだろう。その柴田酒造は20年も前に倒産してしまった。明眸の味は田口の酒造会社蓬莱泉で生き残っている。

 中馬街道の尾張藩(愛知県)への最初の入り口に当たるのが品野だ。品野は歴史のある地域だった。