臨済寺から不動院までなぜ直線で結ばれているのか、その謎を解くため臨済寺に行ってきた。臨済寺の南東に東田町北臨済寺が広く存在する。さらに自分の住んでいた老松町の狭い3区画が臨済寺前という字名が残っている。自分が元住んでいた借家のすぐ裏なのだ。方角が合わない。理解不能なのだ。
臨済寺の墓地の自分の両親の墓に手を合わせてから、ご住職に聞きに行った。さすが住職だ。お寺の古い文章に目を通しておられた。臨済寺は吉田藩の藩主小笠原家の菩提寺だった。
天草の乱で大活躍した小笠原忠知が1650年代に豊後から軍事的にも重要な位置にある三河の吉田へやってきた。臨済寺は吉田場近くに作られたが狭いため、河岸段丘上の東田坂上に移動した。東海道との間に表参道となるこの道ができたとのこと。お寺にはたくさんの屋根瓦が必要で、表参道の東側に瓦作りがさかんに行われ、瓦町という名前が今でも使われている。
臨済寺は100石もの田畑を所有し、吉田藩では大きな存在だった。明治維新の廃仏毀釈、第二次世界大戦後の農地解放で土地を失い、現在に。
北臨済寺は表参道の周りにできた集落の中で北に位置していたのだろう。また、臨済寺前は表参道沿いにできた地域なのかも。戦後の地名変更がされずに残ってしまったみたいだ。