setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

小学校が兵舎に

 祖母懐小学校の60周年記念誌には、校舎が兵舎になってしまったとの記事が。



 

 昭和18年12月12日の午後、B29の編隊が名古屋を空襲したのがきっかけで、その後4〜7日おきに来襲した。空襲警報の発令とともに一斉に下校させてしまう。解除になると又集まって来て授業を継続するというので、落ちついた授業は出来なくなった。
 昭和20年7月、郷土防衛のため瀬戸市に二個中隊が召集された。
 道泉の学校に西部防衛隊が一個中隊。祖母懐の学校に東部防衛隊が一個中隊置かれた。学校が夏休みになると同時に中隊本部を校長室(旧校舎の正面)に移し、兵員約150名が入って、校舎も一 夜にして兵舎に一変した。
 兵には銃剣と三八式歩兵銃が支給された。寝具は藁布団に毛布であった。約2週間、万一敵が赤津方面、山口方面、品野方面より攻撃して来た場合の想定の下に連日演習が行われ、夜間演習も2回実施されたという。
 一方、空からの攻撃は、ただ空襲のみでなく艦載機の機銃掃射もはじまり、校庭も部隊の姿目がけて、機関銃の掃射を受けたこともあった。8月15日、終戦。8月19日に校庭において武器一切 を焼却し、この部隊は解散した。

 昭和16年尋常小学校から国民学校と名前が変わり、教育内容も戦争色に変わっていく。運動場は食糧増産のために運動場は掘り起こされ芋畑になる。山間を開墾して2つの学校農園をつくり、さらに先日イノシシで話題に上がった森林公園へも畑作りに通ったようだ。毎月1日は、『興亜奉公日』と呼び登校前に町内清掃をする。開戦日12月8日だったので毎月8日は、戦争に勝てるように深川神社に参拝したという。

 学校が平和のためではなく戦争のために存在するようになった時代だ。