setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

濃尾地震 根尾谷断層

 2016年4月14日に起きた熊本地震、被害が大きかったのが16日の揺れだった。熊本城が崩れたのが印象的だった。

 去年、三河地震の断層を見に、震源地である蒲郡に車を走らせた。蒲郡・西尾・安城などでの被害が大きかった地震だ。戦争末期の1945年1月13日に起きたがために報道されなかった。戦後も殆ど知られなかった。M6.8、死者が千人をこす。しかもその一月前の1944年12月7日にM7.9の東南海地震が、1946年12月22日にM8.0の南海地震が連続して発生している。戦中戦後のドタバタの中で記録も記憶もあまりない巨大な地震たちだった。

 熊本地震能登地震、そしてそろそろ南海トラフ?もう少し地震について勉強をしないといけない。根尾谷断層観察館がある。一度行ってみないといけないと思いつつ先延ばしだった。熊本地震の話題で急遽動いた。

 今日の根尾谷は山々に雲がかかっていた。鶯がすぐ近くまでおりてきてさえずり、田んぼは代かきが終わり田植えが間近か。地震とは無縁の姿をしていたが、130年前の明治24年(1891年)10月28日に、地面が上下に6mも動いていた。瀬戸にあった焼窯はすべて壊れた。名古屋の多くの地域は激震と液状化での被害。見学して理解したこと、今後少しでもまとめていきたい。

 写真は根尾谷断層の上に植えられていた花だ。Googleレンズで調べると八重咲きの水仙だという。

鯉のぼり その3

「もし、この侍を助けたら、あとで私たちが敵の侍にどんな仕返しをされるかわからない」と思い、
「食べるようなものは、何もありゃせん。」
と、どなり返しました。すると、侍は刀をぬいて家の中へ入ろうとしたので、
「出ていけっ。おーい、ぬすっとだあ。ぬすっとだあ。」
と、大声でまわりの家々にふれ回りました。
時は、ちょうど五月の節句の前、のぼりを立てるために用意してあった竹を持って、近くの人たちが走り出てきました。そうして、侍を追って行き、竹でたたいたり、突き刺したりして、とうとう殺してしまいました。
 それからというものは、この宮前あたりでは、五月の節句にのぼりを立てると、立てた家の子どもが、次々に死んでしまうという不幸が続きました。これは、きっとのぼり竿で殺された侍のたたりだということになり、それからは節句にのぼりを立てる家がなくなったということです。

 その後、村人たちは死んだ侍のためにお墓をつくり、花などをそなえてお参りをしているそうです。

 宮脇町とは、深川神社の東、深川小学校周辺になり北新谷の東側。江戸時代は何本かの大型の登り窯があり天候の良い5月は炎がきっと上がっていた。明治以降石炭窯ができ、煙突が林立した。最盛期は煤で空が真っ黒になり、「瀬戸には小さなカラスがいる」とか「洗濯物は外には干せない」など、空が黒いほど儲かっていると喜ばれた。そんな中で鯉のぼりはあげられなかったんだろう。

 時代は変わったはずだ。今でも律儀に400年前のしきたりを守っているんだろうか。20・21日の土日は陶祖まつりだ。深川神社周辺に鯉のぼりが泳いでいるのか。楽しみだ。

PHEV、デリカミニと

 デリ丸、金メダルを首に下げて春日井の篠木店で待っていた。そろそろワゴンRの後の車を考えなければと考えていたら、デリカミニは人気になり納車に時間がかかるようになっていた。

 

 

 

 

 先日、豊橋の向山の三菱で中古が306万で販売されていた。オプション満載だったが300万超えに驚いた。自分の計画ではデリカミニではなく軽EVをと考えていた。補助金を入れて300万まで。EVは低重心で安定しているし出足がいい。しかし一回の充電で200km走れない。一長一短だ。試乗してみて、EKスペースよりはるかに足回りは良い。腰高の軽はフニャフニャだと思っていたが、四駆なので安定している。

 デリカミニは今生産を停止している。国土交通省の指示で、キャンインベーダー対策のプログラム変更がされるとのこと。

 幸い篠木店では数台のデリカミニを押さえていた。しかもサービス、値引きまで入れて手頃価格で手に入りそうだ。一番人気のグリーンのツートン、グッドタイミング。デリ丸まで手に入らないだろうが。

鯉のぼりその2

 男社会、侍精神が前面に出ている端午の節句。昔は男は男でも長男が一番とされた。瀬戸も昔から男社会だったんだろう。飾りは派手な地域だと思う。ところが瀬戸の一部の地域には鯉のぼりをあげない。深川小学校出身の知り合いも確かに見たことがないと言っていた。瀬戸の昔話には次のような話がある。

 5月には、男の子が強く、たくましく育つようにという願いをこめた端午の節句があります。だから、昔から男の子がいる家では、のぼりを立てたり、武者人形を座敷にかざったり、お餅をついたりしてお祝いをします。しかし、深川神社のそばの宮脇町あたりでは、不思議に五月の節句になってものぼりを立てる家はありません。それには、こんなわけがあるからです。
 400年ほど前(1600年ごろ)、豊臣方と徳川方の軍勢が長久手村でいくさをしました。このいくさでは、はげしくやりで腹を刺されたり、刀で背中を切られたりして、両方の侍がたくさん命を失いました。負けた豊臣方の一人の侍が、傷つきながらも逃げてきました。その侍の体はやりや刀の傷で血だらけで、よろいは破れ、傷ついた足を引きずり、つるの切れた弓をつえにして、ようやく一軒の農家の前までたどり着きました。
そこは、ちょうど瀬戸の宮脇あたりでした。侍は、百姓の家の戸をドンドンドンドン、ドンドンドンドンとたたき、


「おたのみ申す。何か食べものをくだされ。腹がへって倒れそうじゃ。」

戸を開けた百姓は、血だらけで、髪の毛をふり乱し、ギラギラと光るするどい目つきの侍が立っていたので、思わず震えあがってしまいました。
百姓は、とっさに考えました。

「鯉のぼり その3に続く

鯉のぼりその1

 桜が終わると、新緑が始まる。そしてゴールデンウィークだ。4月29日は昔は天皇誕生日、今は昭和の日。5月3日が憲法記念日、5日がこどもの日。間の4日は昔は休みではなかったが連休を作ろうと休みになった。5月1日はメーデーだが休日にはならなかった。現役の頃秋の連休とともに今年はどうなるんだろうと楽しみにしていた。

 ゴールデンウィークが近づくと鯉のぼりを上げる家が多くなる。写真は昨年瀬戸市内を歩いていた時、見つけた鯉のぼりだ。江戸時代に男の子の節句として武士の家で始まった風習のようだ。『男らしく』『男なら』とか『女々(めめ)しい』『女らしく』などの言葉が当たり前のように残っている。自分も使ってきた。

 ニュースで、明治生まれの男性が一人もいなくなったという。自分たちの世代は明治生まれの祖父母に影響を受けて育った。もしかすると江戸時代生まれの祖父母がいたんだろう。男らしい、男なら、男だろうという言葉が当たり前のように聞かれた。自分は弱かったので、女々しいと言われていた。

 今日、森林公園の西側を車で走っていて鯉のぼりを見た。普通は黒・赤・青の真鯉・緋鯉・青鯉が多いと思っていた。今日見た鯉のぼりは、ピンクや水色が入っていた。時代はどんどん変わっていくのだろう。

 我が家の小さな小さな鯉のぼりです。 

 

 

 

雨池と三番目の祖母懐小学校

 親子地蔵に関係する伝説の最後の舞台は雨池だった。雨池は祖母懐の地にあった。雨池の横の中池が埋められて、大正5年に瀬戸の第3番目の小学校として瀬戸町立祖母懐小学校が開校した。

 1番目は明治6年にできた東春日井郡瀬戸第一尋常小学校陶原小学校)だ。その30年後の明治36年に2番目の東春日井郡瀬戸第二尋常小学校(深川小学校)ができる。学校ができ始めたころの瀬戸はまだ瀬戸村で3000人ほどしか人口はなかった。明治25年には瀬戸町になり5000人をこえてくる。大正2年にはなんと20000人と人口が激増していく。

 子供の数も当然増えていく。陶原小学校と深川小学校だけでは入りきれなくなり、第三の小学校である祖母懐小学校が大正5年に誕生する。それまでは一里塚川の北と南で校区が分かれていた。その一里塚川沿いの祖母懐に建設された。しかし深川小学校の児童数はその後も増え続け、大正15年に道泉小学校を、昭和10年代には2000人となり古瀬戸小学校をさらに分離させている。

 祖母懐小学校が1年生から6年生まで全員揃ったのは、校舎が完成するまでの3年もかかった。大正5年には1・2年生、大正6年は1・2・3年生、大正7年になってやっと全学年が通学できた。その間は、家の前に新しい校舎を見ながら、遠い陶原小学校に通った子もいた。

 たまたま目にした祖母懐小学校60周年記念誌、見ながらいろいろな想像をしている。