setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

子供の声がもうすぐ戻ってくるのか

 先日、パルティ瀬戸の地下駐車場に車を止めて、道泉地区を歩いた。尾張瀬戸駅北側の通りには昔から瀬戸物の問屋さんが並んでいた。磁器の神様加藤民吉の生誕の碑を見てから西に向かう真っすぐの道を進み、北側に上る狭い道を歩いて行く。自分の頭の中では小学校の近くに出るはずだったが、墓地の近くに出てしまった。そういえばこの墓地に『品野の又さ』のお墓があるはずだと見まわしたが、そう簡単に見つかるわけがない。起伏のある細い道を西に進むと、道泉の地域交流センター(公民館)が見えてきた。その横から入り込むと元道泉小学校だ。

 2020年に、7つの小中学校の統廃合で、道泉小学校や本山中学校の子供たちは新しいにじの丘学園(小中一貫校)に通学している。地域から子供たちの元気な声が消えてしまって4年たつ。今日見た道泉小学校の校舎は外装に青色が使われきれいになっていた。そう、下の写真の元本山中学校の校舎を使って2021年に開校した『学校法人瀬戸SOLAN学園』と同じ色だ。今は小学校だけだが、やがて中学校も運営されるんだろう。

 元道泉小と本山中は校舎が南北背中合わせで建っている。子供の元気な声がもうすぐ戻ってくる。

中馬街道の歴史を歩く会その13(森橋)

 十三塚地蔵堂を地道沿いに南下すると国道155号線に出ると、明治二十三年に制定された中馬街道になる。瀬戸街道とも呼ばれていた道だ。瀬戸街道と言っても共栄橋を通らずに追分を通って新瀬戸から根の鼻、三郷に抜ける瀬戸街道の旧道だ。追分から旧中馬街道とは分かれるものの、瀬戸の産業を担ってきた道でもある。

 起伏のある旧道を長々と歩んできた三十名近い軍団の最後に位置していた我々数名の年寄りを国道近くで待っていてくれた会の責任者は、陣屋川にかかっている橋の話をしてくれた。名前は『森橋』で、ここを基点に明治二十三年に新しく制定された中馬街道の起点にあたるという。この森橋が今村と瀬戸村の境になる。

 明治に新しく中馬街道となったのは、森橋を起点に尾張瀬戸駅、宮前、古瀬戸を通って品野にそして信州に向かう街道だ。馬子と馬が荷を運ぶだけの狭い道ではなく、車(馬車や自動車)が走ることができる道を想定して拡幅したり、コースを変えたりして新道をつくった。地域を調べていくと『新道』や『新道町』などの名前が残っているのが面白い。

 でも自分が瀬戸に来た50年近く前は品野に行くバスに乗ると「えっつ!こんな道を走るの?」と思う道が何か所かあったのは確かだ。

 上の写真で、橋の名前が書いたプレートが普通あるはずだが、戦時中に金属の回収で無くなったままになっていると説明された。確かに無い。戦後90年近くなるのに過去を引きずっている森橋だ。市役所も完全に忘れているのだ。それを知っている年寄りもすばらしい。

PHEV最初の車検だ。明日から3月

 暦の上で、春。でも暑いのか寒いのかわからない。寒暖の差があり身体がついていけないのは、自分だけではないだろう。

 自分のエクリプスクロスが3年になる。一回目の車検だ。篠木の三菱でお願いした。ついでに夏タイヤへの変更もしてもらった。車体のコーティングも含めて11.5万だ。ん?想定以上に安いのだ。5年間は県税がいらないことも関係するのか。

   

 3年間で21000kmになるが、最近チョット瀬戸市内のことばかり関わっている。もっと走らねば。今、濃尾地震震源地の谷汲、豊橋の博物館、阿智村の開拓平和記念館など関心のある所は多い。友人から碧南の藤井達吉美術館がいいよと勧められている。

 さあギヤを入れなければ。ドライブをしないと。

 明日から3月だ。クルマは乗らなければクルマではない。楽しもう。

中馬街道の歴史を歩く会その12(十三塚地蔵堂)


 十三塚について瀬戸ペディキュアには、次のような話が載っている。

今から400年ほど前、長久手というところで豊臣方の軍勢3万が、1万8千の徳川方の軍勢に後ろから攻められて、みじめな負け方をした時の話じゃ。

 敗れた豊臣勢の侍は、てんでばらばらに逃げたそうな。戦に勝った徳川方の侍は口々に、

「相手の侍は、一人も逃がすな。」 

と、追手を出して、くまなく探したそうじゃ。でも、豊臣方の侍の何人かは、厳しい囲みの中を逃げ出し、そのうち十三人がなんとか瀬戸まで、相手に見つからずに逃げ延びたそうじゃ。

「しっかりせよ。」「なんとか落ち延びよう。」

と、お互いを励まし合いながら逃げて、、

ようやく瀬戸にたどり着いたときには、のどはからから腹はペコペコ。そこで近くの村人たちの家にかけこんで、

「食べ物を少し分けてくだされ。」「水を飲ませてくだされ。」

と口々に頼んだそうじゃ。しかし村人たちは、逃げてきた侍を助けたために、自分たちが徳川方からにらまれたらたまらないと考え、侍たちに食べ物や水はいっさい与えず、それどころかよろいや刀を取り上げて、村はずれで殺してしまったそうじゃ。やがて村人たちはいつとはなしに十三人の侍のことなどすっかり忘れていたのじゃ。

 数年後、村に亡霊が出たり、庄屋になった人が不思議な死に方をしたり、田んぼでは米の不作が続き、畑では野菜がとれないといった不思議なことが起こったそうじゃ。

「どうしたことだろう。」「何のたたりだろう。」

と、村の人々は話し合っているうちに、長久手の戦いで逃げてきた十三人の落ち武者のことを思い出しました。

「あの時、侍たちにひどいことをしたたたりじゃ。」

と悔やんだが、今となってはどうすることもできず、せめてあの時の侍のとむらいをしようと、十三のお墓をつくり、みんなせ拝んだそうじゃ。


 それから後、いつの間にかこのあたりを十三塚と呼ぶようになり、8月24日を

「侍の霊を慰める日」に決め、村人たち総出で盆踊りをしたりしておまつりをするそうじゃ。

 尾張のところどころに、長久手の合戦の話が伝わっているが、みな悲しい話ばかりじゃ。

 十三塚とは、死者供養、境界指標、修法壇としての列塚を築いたものをいう。一般に十三塚は村落へ悪霊等の侵入を防ぐための鎮護祈念の祭祀所と考えられ、その形状は仏教の十三仏信仰思想から考えられている。

 

 昔話の多くがこうした悪霊や死者の魂をしずめるための話が多い。

 左側の石仏が十三塚地蔵なんだろうが、地域の先輩に確認しよう。

 

第5回せと歴史探訪講座 やっと③(青の広場と伊香保温泉)

 2月2日に範效公民館で行われた瀬戸蔵ミュージアムの元館長武藤氏に教えてもらったことの3つ目の記事になる。

 宮前(深川神社前)は瀬戸の劇場や料理屋が多くの人が集まった。昭和29年に『青銅の基督』の映画の撮影が瀬戸キャニオン(粘土鉱山)で行われた。映画の全盛期、大女優山田五十鈴香川京子が瀬戸にやって来た。俳優さんたちは名古屋で泊まったんだろうが、スタッフたちは米屋旅館に宿泊したという。

 講師の武藤氏は、その米屋旅館は、宮前の瀬戸川沿い、今は青の広場の位置にあったと言う。???ここってパチンコ『赤玉会館』があった場所だ。自分が瀬戸に来たての頃はすぐ近くに住んでいた。宮前近くには三つのパチンコ屋、二つのゲームセンターがあった。自分が二十代の頃は、よく遊んだ。パチンコ屋もゲームセンターもなくなった。その米屋旅館のあとにパチンコ屋になり、十年以上前に休業した。数年前に取り壊され広場になった。

 瀬戸ノベリティ倶楽部で紹介されている『青銅の基督』を読んでいると伊香保温泉の話が出ていた。伊香保温泉のご主人がカメラを趣味としていて『青銅の基督』の撮影の様子を写真に残していた。伊香保温泉は米屋旅館の瀬戸川を挟んだ反対側にあった。近くに住んでいた自分は、アパートに風呂がなかったので、よくお世話になった。

 郷土史を研究された小澤武夫氏の『背戸と天神』に伊香保温泉の記述があった。

 大正3年宮前橋が大改修されると、翌4年、橋のたもとに寺社風の風呂屋を初代佐久間さんが建てられ、その後伊藤さん、加藤さんと私が受け継ぎ、その堂々たる館(三階建て)と川北の米屋旅館(三階建て)と共に瀬戸名所となり、夜となると多くの人が一日の仕事の疲れをいやさんため、宮ぶらの目印になりました。昭和17年湯屋統制令も逃れ、美しい姿を瀬戸川に映しておりました。一階は岩風呂の浴場、二階は戦前瀬戸一の玉突き場でした。戦後は社交ダンスのレッスン場となり、若い男女でにぎわい瀬戸に社交ダンスを広めました。

 伊香保温泉ってレジャーランドだった。

中馬街道の歴史を歩く会その11(陣屋・安戸の馬頭観音から十三塚へ)

 29名の年寄りを中心とした団体は、ここに来た頃に先頭から最後尾まで長い列となっている。ゆっくりお顔を拝見する余裕はもうなかった。写真だけ撮らせてもらった。

 尾張旭の郷土の研究家の石頭逍遥氏が『瀬戸の馬頭観音』の記事には、『光背には「明治28年8月吉日 加藤作衛門」と刻まれています。馬稼ぎに携わった人が個人的に建立されたもののようです。・・・』この日も馬頭観音には花が飾られていた。お家の方や地域で大切にされていることがよく分かる。

 陣屋・安戸の馬頭観音像の前から南西に進むと、広い道(十三塚線)に出る。逆方向の一方通行の狭い道に入る。追分に抜ける道だが、最近陶生病院前の広い道と繋がったため交通量が多い。陣屋川にかかる橋を渡り川沿いに左に曲がる。(下の写真では自動販売機の奥方向から来て橋を渡って向かって右方向に入る。)

 この小道を奥まで進むと名鉄瀬戸線の線路に出る。面白かったのが線路の下をくぐる橋がかかっていたのだ。背の高い人は電車の車輪が当たるんではないかと心配になる。電車好きにはたまらない撮影スポットだろう。くぐると右手にお堂がある。十三塚地蔵堂だ。

 一里塚は誰しも知っているが、十三塚は何だろう。一里塚は、街道に必要とされた名称だ。しかし十三塚は全く知らない。調べると十三仏なる言葉があり、思ったより多く十三の言葉が残っている。猫が絡んでいる説があるのが面白い。関心のある人は調べてほしい。

 

中馬街道の歴史を歩く会その10(加藤商店から陣屋・安戸の馬頭観音へ)

 歩く会の面々は、窯神グランドを過ぎると左に曲がり、次も左に。陣屋の道に入る。

 基本的にはこの通りが中馬街道だ。道は南西方向に進む。

 陣屋の道に入り400mほど歩くと、右手に赤い郵便ポストが目立つ加藤商店になる。

 この加藤商店の前を斜めに入っていく道が昔の中馬街道だという。Google衛星写真で見ると、2本の道の間に、なんとなく道が続いているような気がする。

 加藤商店から南西に300mほど行くと、横断歩道の左手に大きな家がある。その家の塀の一部分が馬頭観音堂となっていた。一方通行のこの道を自動車で走っているとまず気づかない。陣屋・安戸の馬頭観音様は目立つことが嫌いな方だった。存在は知って知ってはいたが初めてお目にかかることができた。