setokouchanの日記

ついに70、年寄がPHEVで観音巡りにチャレンジ中。コロナ禍で家でごろごろが多いが。現在は子供の頃を思い出しながら妄想したり観音巡りの記事を充実しようとそれなりに奮闘中。

若いって素晴らしい、歳を取るのも面白い

 先日、常に5歳先を歩んでいた先輩が亡くなった。通夜、告別式とご遺族とともに過ごさせてもらった。そして、いろいろな会葬者の方とも会えた。

 亡くなった彼は、子供を育て上げた。そして孫は、優しい子に育っていた。孫たちは年寄りたちに気配りしながら当たり前のように動いていた。

 そのお孫さんの中に、今アイドルで活躍中の私立◯◯中学校のメンバーがいたのだ。ここまで頑張ってきたのは本人の努力が大きい。成功するしないの問題ではなく、彼女は夢に向けて大きな一歩を踏み出していることだ。

 アイドルとは無縁の世界で生きていた自分からすると理解できていない部分はある。今日出会え会話して、彼女たちの一部分に触れた気がする。

 若者が活躍し始めた、その基礎は祖父母・両親がつくったのだ。祖父は亡くなったが、孫たちが新しい世界をつくり始めていた。弟も名前が出始めた。頑張って欲しい。自分は何もできないが興味を持ちながら見ていこう。

 お祖父ちゃんは、秋祭りでハッピを着て飾り馬を連れて走っていた。馬子だ。

 楽しいことが大好きな、そしてお酒が大好きな年寄りだった。別れは辛いが、仕方がない。ありがとうございました。自分はもう少し飲みたい。

 

中馬街道を歩く会(その6)5丁目観音堂から全宝寺へ


 道標を西に向かうと、5丁目観音堂がある。化粧地蔵になっている。地蔵様ではなく馬頭観音なので化粧観音になるのかな。

 この道には、江戸時代につくられた藁葺の家や、エンゴロ(窯焼きに使う道具)でつくられた塀など面白い。中馬街道は今の国道に出る。この辺りが火の見下と呼ばれ、字のごとく火の見櫓があった場所だ。明眸の柴田酒造が正面に見ながら左手(南)に曲がるはずだったが、柴田酒造はもうない。酒蔵の代わりに今はショッピングセンターバローがある。

 この火の見下に、津島さんのお社と常夜灯がある。津島さんが品野祇園祭の神様で、どの地域(シマ)にもある。中品野や上品野などのお天王さんは日にちをずらせて行う。

 バローを正面に左手に。卸問屋が道沿いにあったと思われるが、2丁目目の信号の横に山善商店さんは昔からのイメージを残したまま今も残っている。国道の歩道は狭く歩きづらい。要注意だ。2丁目の信号から右(西)に曲がる。今では地元の車しか入らない裏道が中馬街道だ。しばらく緩い上り坂を歩くと左手に、今日のゴールとなる全宝寺がある。

 

 

告別式と今日の月

 今日は、自分の10台後半から50年以上もお世話になった人の告別式だった。長く肝臓を病んでいた。彼は、町内の秋祭りには馬子の衣装をして馬を連れてきた。自分が中馬街道と結ぶ人でもあった。祭りでは時には女形で登場してみんなを喜ばせた。

 彼の葬儀から帰ってくると、上空に白い月が。午後3時頃の半月だ。日没後、再び月の撮影を。この時間になると高い位置にきれいな月が見える。

 彼は、亡くなった後も、楽しませてくれるのだ。西の空には、木星が、いつも手ブレで尾を引いてしまう。今日は三脚を使わなくてもなんとか丸く撮影できた。

 いつかは、木星の縞やリングなども撮影できるようになれるといいが。

 故人は大酒飲みでもあったが、一緒に飲む機会はなかったの残念だ。多分十分飲み尽くして満足して亡くなったんだろう。

平和主義者のつもりなのに軍用機に惹かれる情けない自分

 情けないが、戦争反対のはずなのに戦闘機に惹かれ写真を撮りに行く。今日は各務原岐阜基地に行く。今までもF35やF2戦闘機の写真を撮ってきた。矛盾だらけの自分だ。C-1輸送機を数年前に撮影できたがC-2輸送機は今まで一度も近距離での撮影はできていない。なんとかC-2の写真が撮りたくて何度もチャレンジしても嫌われているのかお目にかかれなかった。各務原での撮影は、滑走路の東の公園からの撮影が多いが、いつも同年代の老人が高そうな長い望遠レンズを持っている。しかも駐車場はいつも満車だ。

 今回は、各務原航空宇宙博物館の駐車場に行った。T-2練習機がタッチアンドゴーにでくわす。なんとその後からC-2輸送機が同じようにやってきた。赤いラインが入っているので実験用の機体だろう。

 コンデジの高倍率のカメラでも博物館から上昇する大型機は撮影できる事がわかった。久々に満足できた。

 もっとくっきり撮りたがったがコンデジではこんなもんだろう。満足である。

 

 もう一つ嬉しいニュース。各務原に向かう途中木曽川手前でツバメが。ちょうど信号待ちだったので、カメラで。長旅で疲れているのだろう。羽の艶がない。ゆっくり栄養補給をして体調を整えて欲しい。2023年は3月27日に第1号のツバメを確認した。瀬戸にはまだきていない。

 

中馬街道を歩く会(その5)下品野から道標まで

 国道363と248が品野交番前の信号で合流する。信号東側で中馬街道は、斜めに左(南西)の路地に入りまた国道に出る。瀬戸信用金庫の前を通ると再び左の路地を通る。瀬戸信用金庫ができる前はここにミュージックホール(共和倶楽部)で、ホワイトリリーアンサンブルと言う名でジャズバンドが活躍していた。品野本町には、大正座という劇場まであったのだ。

 国道の拡幅工事が行われているため多くの古い建物が撤去されていて、寂しい感がするが、卸問屋や銭湯、パチンコ屋などが立ち並び賑わった場所でもある。
 中馬街道は国道の一本東側の路地を通っていく。加藤医院(歩く会前に新しい建物に変わっていたが、半年前までは写真のように白い美しい昭和の建物だった)の前を通るとすぐ、瀬戸の人には懐かしい料理屋の角甚が、岩屋堂に移る前にあったとされる場所まで進む。

 この道しるべは道をなおす時に品野中学校に移動したようだ。地域の方が正しい場所を古地図や文献などで調べ、最近本来あるべき場所に戻したものだ。ここで中馬街道は西に曲がり名古屋方面へ、東に行くと赤津への道になる。

PHEVは今日も行く 軽EVについて考える

 エクリプスクロスも2年たった。尾張や美濃の観音巡りで1万5千㌔ほど走った。この車の走りは、高速の走りはあまり得意ではない。たいくつなのだ。山道や海岸沿いを走るのが面白い。

 2年目の点検で、春日井篠木店へ。スタッフの水野さんとまた話し込んでしまった。営業の邪魔しに行っているようなもんだ。彼の話の中で、日産車ばかり買っていた人が、今回三菱の軽のEVを三菱で購入したとのこと。三菱の軽EVは日産の軽EVサクラと同じ車だ。なのにサクラではなく三菱を選んだという。ちょっとしたスタイルの違いが彼には大きすぎたんだろう。

 この方は、自分と同じ70歳にばったばかりだ。セカンドカーとして軽EVを選択した。面白い。坂道もスイスイ上る、エンジンの軽自動車にはない走行ができると喜んでいるようだ。先日代車でのったEKスペースは、車高が高く重心が高い。エンジンは非力で走行は不安定だった。軽EVはバッテリーを座席下に積むため重心は低く、試乗したときも安定した走りを見せてくれた。我が家のワゴンRの後継車種の第1候補になっている。

 しかし、充電100%でも150kmはコンディションが良くないと走れないようだ。暖房を入れると走行可能距離がぐっと減る。彼が岐阜のゴルフ場に出かけた時、暖房を入れて走っていたため電欠になりそうになったとのこと。JAFの電源車を呼ぼうとまで考えたようだ。幸いにもゴルフ場に普通充電設備があったので助かったとのこと。充電器がどこにでもあるわけではないことがEV車の欠点である。自分も感じたが岐阜が特に少ない。EXTERIOR DESIGN

 彼が、軽EVを注文したのは昨年の初夏、彼の手にやってきたのは3月初旬。9ヶ月もかかっている。EVには半導体が多く使われる。納期はどんどん遅れているのは現実だった。そして高額にもなってきている。EKクロスEVのPバージョンは何と300万円を超えてしまった。(安いGだと260万弱)いくら補助金があっても250万超えは覚悟しなければならないだろう。

 補助金の予算は通りそうだが、その後はまだ続くのか。55万円の補助金は有るかないかで天と地の世界だ。今年度はすべての購入者に出たみたいだ。来年度はいつ予算が切れるか。買うタイミングが難しい。

 今のままで行くとコンパクトカーのほうがコスパは良さそうだ。

中馬街道を歩く会(その4)品野について

 昔の仲間に誘われて参加した中馬街道を歩く会。自分が30年も前から惹かれていた中馬街道。始まりは馬頭観音だった。品野を歩くと路地に石仏が祀られていた。品野5丁目に社がつくられ馬頭観音が集められ、赤や白に塗られ、毎年お参りがされていた。

 そこから街道というものに関心が出てきて調べ始めたのが中馬街道だ。安い一眼レフを購入し撮り始めた。

 当時品野について軽く考えていたが、調べれば調べるほど面白い。ほんの片田舎の町だという勝手な想像がぶっ飛んだ。品野町は戦前のものらしく威厳がある(人家に隠れてほとんどわからないが)。今は瀬戸信用金庫がある場所には、戦後すぐミュージックホールができジャズバンドが生演奏をしてダンスを楽しむ若者が集まった。パチンコや銭湯は当たり前、今の品野の若者には考えられないほど賑わっていた町だったのだ。昭和30年代国会で当時の総理の発言にも出てきたねこなし皿という有名な焼き物は中品野で始まったのだ。

 30年ほど前、品野の焼き物の問屋を訪れた時、品野の焼き物ではなく更に瀬戸物でもなく美濃焼を取り扱っているという。30年以上前のことだ。これには大きなショックを感じた。品野焼という単語すらなかった。

 品野という地域は、信長の時代に、制札を出して瀬戸物を守ったり、その後信長が岐阜に拠点を置くとで美濃に窯焼きが移ってしまう。焼き物づくりは衰退する。瀬戸山離散だ。江戸時代になると尾張藩の初代藩主徳川義直(家康の9男)が加藤新右衛門を呼び戻し、再び焼き物作りが盛んになる。新右衛門の子孫は代々、『織田信長の制札』を守っている。

 自分にとって品野が特別な存在になったのが、柴田酒造だ。品野祇園祭の中心にあった酒蔵だ。明眸といえば思い出してくれる人もいるだろう。若い頃ここで試飲させてもらった冷酒(大きな酒樽の中から長い柄杓でコップに注がれた透明で濃厚な冷酒)を知った時、これが本当の日本酒なんだと思った。おかわりをする。アルコール度数の高い冷酒をコップ酒で頂戴した。なんと贅沢な瞬間だっただろう。その日は、職場に泊まらざるを得なかった。馬子たちも、下品野まで下りてくれば美味しい酒が飲めたんだろう。その柴田酒造は20年も前に倒産してしまった。明眸の味は田口の酒造会社蓬莱泉で生き残っている。

 中馬街道の尾張藩(愛知県)への最初の入り口に当たるのが品野だ。品野は歴史のある地域だった。