setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

2023-04-01から1ヶ月間の記事一覧

変な車発見 ミツビシ

リニア鉄道館へ行った。名古屋の金城ふ頭だ。市営の金城ふ頭駐車場をやっと見つけた。それまでに何周リニア館の周りを回ったんだろう。車で来るなんて鉄道側からすると罰当たりなんだろう。 リニア館を見学して、歩いて名古屋港の埠頭へ。入ってはいけないん…

年寄りの戯言313 豊橋 瓦町

瓦町という町名、友人たちが住んでいたので覚えている。伊勢湾台風で屋根瓦が何枚も飛ばされ、瓦を買いに行ったのは、もっと東に行った記憶が。父親の運搬自転車に乗せてもらい、三ノ輪より東に一号線を走った気がする。だって小1の時だ。記憶は曖昧だが、…

年寄りの戯言312 瀬戸を歩く 記念橋②

1873年のウィーン万博で瀬戸の製品が世界で有名になる。やがて輸出が始まり、作ればつくるほど儲かる時代が始まる。瀬戸での輸送は馬でしかなかったんだろう。 明治政府は中央線の路線をどこにするか計画に入る。瀬戸もその計画の中に入っていた。中馬街道沿…

年寄りの戯言311 1964年 豊橋での思い出

1964年は、自分は豊橋の小学校の6年生だった。東京オリンピックがあり、あわせて国鉄が新幹線を走らせた。ひかり号とこだま号だ。 10月1日に開業した新幹線。当時、新幹線が見たくて自転車で何度も見に走った。豊橋にも新幹線が走っていたのだ。橋の上から真…

年寄りの戯言310 瀬戸を歩く 記念橋①

瀬戸には記念橋駅なるわけのわからない駅が川沿いにあった。もうないが追分駅もかつてあった。品野駅という名前も昔は残っていた。 みな、バスの駅なのだ。自分が瀬戸に来たときはJRバスの停留所。なぜか駅という名前が。さらに記念橋という名前まで誇らしげ…

年寄りの戯言309 東雲商店街 千代の湯 肉屋 市電車庫

もうなくなっていた千代の湯。前回豊橋の散策をしたときには、わからなかったはずだ。銭湯自体残っていない。残っていたのは東雲通りからの狭い通路だ。子供の頃自分は、南の裏口から入っていた。 千代の湯は表側の通路のみを残して無くなっていた。東雲商店…

年寄りの戯言308 不動院 吉田不動

不動院は、自分の卒業した豊橋市立旭小学校の友人たちが通った不動院幼稚園を経営している。自分は同胞園という公立の保育園に行っていた。不動院幼稚園は60年以上前にもう通園バスがあったような気がする。自分たちは園からの帰りは先生の後ろに金魚のフン…

年寄りの戯言307 臨済寺表参道 

臨済寺の住職にいろいろ教えてもらい、歩いて見学に。 教えてもらった話の中に、吉田藩の処刑場が臨済寺のすぐ南西にあるはずだからと言って探しに来た人がいたとのこと。住職は「寺の中には不吉な場所はつくらない。それは今の陸軍墓地辺りだと思う」と教え…

年寄りの戯言306 今日4月22日の月

今日は4月22日、午後7時前に久しぶりにネコと夕方の散歩に。月が西の空に見えた。細い細い月だ。月齢2日の月だ。旧暦を調べると3月3日だった。外は暗くなり始めたものの薄っすらと西の空に見え始めた。5月6日が満月だ。早月(さつき)、フラワームーン。徐々…

年寄りの戯言305 豊橋を歩く(臨済寺から不動院)

臨済寺から不動院までなぜ直線で結ばれているのか、その謎を解くため臨済寺に行ってきた。臨済寺の南東に東田町北臨済寺が広く存在する。さらに自分の住んでいた老松町の狭い3区画が臨済寺前という字名が残っている。自分が元住んでいた借家のすぐ裏なのだ。…

年寄りの戯言304 中馬街道を歩く会 番外編(大槇)

中馬街道に関する昔話は多い。先に記事にした市場屋の火事も中馬街道下品野村で起こった話だ。行基上人の話もいくつかある。全宝寺の西に大慎という場所があった。過去形で言うのはもうこの場所はなくなったということだ。粘土鉱山に変わってしまったのだ。…

年寄りの戯言303 文化財は未来のためにあるべきだ

洞の道を歩いた。洞の本業窯だ。8代目半次郎に襲名した若者が、代々継いできた文化財の本業窯を守るため新しい試みをしていた。 瀬戸民藝館と言う名になり、先代たちが残した陶芸を次代に繋げようと活動していた。6年以上、準備して昨年から本格稼働した。…

年寄りの戯言302 中馬街道(土岐)

国道363号線を東に向かう。品野から岐阜に入ると雨沢、柿野、鶴里などなど美しい地域名が出てくる。柿野温泉も品野に勤めていた頃何度も来た。ジャングル風呂で有名な温泉もあった。宴会場もありバスの送迎付き歓送迎会や忘年会ではお世話になった。四半世紀…

年寄りの戯言301 曽木公園で

中馬馬子唄に出てくる曽木は、柿野の東にあたる。国道363号線沿いにある曽木公園に行ってきた。国道363号線は、『中馬ハナノキ街道』と名前がつけられている。岐阜県は、いろいろな街道に植物の名前をつけている。道に対する考え方は愛知県と違う。この街道…

年寄りの戯言300 今日の瀬戸川(4月17日)コイが帰ってきた

陶祖まつり終わり、今日は瀬戸川の散策をした。最近の瀬戸川はコイがいなくなったと記事に書いてきた。この1年間以上一匹のコイを見つけられなかったのだ。カワウが原因だと思っていたし今でも思っている。 久々に歩いてみた。何と、50cmクラスの大きなコイ…

年寄りの戯言299 今日は陶祖まつり

昨日は雨だったが、今日は朝から青空が。晴天の中、陶祖まつりが開かれている。午後3時頃様子をのぞきに。バカ道路の駐車場は満車だ。瀬戸蔵は意外に車はとまれそうだった。川沿いやパルティ瀬戸のロータリー近辺は多くのお客さんが来ていた。 瀬戸歴40年以…

年寄りの戯言298 中馬馬子唄

国道363号線を見晴峠を通って岐阜県側に行くと、雨沢や柿野の集落になる。土岐市だ。雨沢では、中馬馬子唄が残っている。品野の中馬街道を調べている方々が、品野祇園祭に雨沢の中馬街道保存会に来てもらって発表してもらった。民謡は地域名や当時の様子が伝…

年寄りの戯言297 陶祖まつりと洞

陶祖公園や窯垣の小径、洞の本業窯(半次郎窯)そして、元古瀬戸小がどうなっているのか、などなど考えながら数日にわたり歩いた。瀬戸に住みながら知らないことだらけ。 久しぶりの窯垣の小径。今の洞の道の北側にある山沿いの細く曲がったそして起伏のある…

年寄りの戯言296 もうすぐ陶祖まつり4 洞の半次郎窯②(若者がチャレンジしている)

半次郎窯は、瀬戸・ものづくりと暮らしのミュージアム『瀬戸民藝館』として、新しく生まれ変わっていた。8代目の半次郎さんになるんだろう若者が、文化財を守ろうと新しい取り組みを始めた。 8代目は父親7代目と一緒に、6代目半次郎が残した本業窯を民芸館…

年寄りの戯言295 もうすぐ陶祖まつり3 洞の半次郎窯①

本業窯の一里塚ともうひとつ洞に半次郎窯が残されている。窯垣の小径を通りながら、洞の奥へ向かう。小径の資料館は月〜水曜日が休みだが、駐車場は午後5時まで開いている。 窯垣の小径は昔の洞の街道、馬が通れるだけの幅しかない。起伏の多い山道なのだ。…

年寄りの戯言294 中馬街道を歩く会 番外編(市場屋の火事)その2

八つ(午前2時頃)と思われるころ、西の倉あたりから焦げ臭い匂いとともに、パチパチ音がしたと思う間に急に火が噴き出し、倉は火の海となりました。南の倉には油が入っているから大変です。あれよあれよという間に、火は燃え広がり広い市場屋も母屋から倉…

年寄りの戯言293 中馬街道を歩く会 番外編(市場屋の火事)その1

火の見下西の常夜灯でいろいろ方に話が聞けた。その中に市場屋の火事の話があった。瀬戸の昔話をまとめた『りゅう』と『花川』昭和52・3年に子供向けにまとめられた本がある。その本の中にも載っている。 『市場屋の火事』 今から140年前のお話です。 中馬街…

年寄りの戯言292 豊川海軍工廠(その2)

こ この平和公園の資料館では、1日4回、語り部による説明が聞ける。語り部の方がどういう方かはわからないが、生き残ってきた方だと想像すると、自分の母親より少し若い年代だ。90代だろう。終戦の年には国民学校高等科の子どもたちも動員されたというから12…

年寄りの戯言291 陶祖まつりと本業窯2

一里塚の本業窯に行ってきた。 県道33号線(クリーム色の道路が本道だ)にじの丘学園の入り口の信号を東に入る。 狭い道だが、旧道との交差点をそのまま入っていく。右手にガードレールを見ながら奥に行くとすぐ写真の場所になり右に入るとそこが駐車場とな…

年寄りの戯言290 陶祖まつりと本業窯1

15・16日は陶祖まつりが行われる。 自分が瀬戸に来るまでは、焼き物が陶器と磁器の二種類あることを知らなかった。陶器が土を焼いたもの。磁器は陶石などを砕いたものを白い粘土と一緒に焼いたものだ。器で考えると、厚くて重いのが陶器、薄くて軽いのが磁器…

年寄りの戯言289 中馬街道を歩く 番外編 中品野のねこなし皿②

中品野では、ねこなし皿がつくられていた。ねこなし皿は寝こなしでつくる皿として、金儲けには縁のない仕事だった。初めはろくろを使わない楕円形の刺身皿だったようだ。その後、機械式ろくろやガス窯などが導入され、好景気に後押しされながら成長した。し…

年寄りの戯言287 中馬街道を歩く会 番外編 中品野のねこなし皿①

中馬街道を歩く会で、中品野を通った。上品野村や中品野村では焼き物作りは明治時代まで許されなかった。江戸時代までは同じ品野でも下品野村のみ許された仕事だった。 明治の新政府になり自由に焼き物づくりができるようになり、上・中品野も磁器生産が始ま…

年寄りの戯言288 自治会について考える2

平成前期までは町内会は活発だった。昭和生まれの団塊の世代で、町内会活動は当たり前の世界だった。 自分の町内は、昭和50年頃は子供が120人以上もいて、町内で運動会もできた。自分が役をやった数年前は、敬老会の対象者(75歳以上)が130人もいた。子供会…

年寄りの戯言286 中馬街道を歩く会 番外編 印所(いんぞ)街道

中馬街道は、品野の全宝寺から西にある名古屋方面に向かう。この地域は優良な粘土が採れるため街道の道筋が残っていない。日本のグランドキャニオンとも呼ばれる粘土鉱山、ここでは『青銅の基督(キリスト)』という映画の撮影が行われた。香川京子や山田五…

年寄りの戯言285 瀬戸を歩く(陶祖公園で見つけた自然)

3月5日は瀬戸の街を歩いた。陶祖公園を中心に深川地区をぐるっと一周。 秋には葉が真っ赤に染まるドウダンツツジが花を咲かせていた。小さくて白い可憐な花である。ドウダンツツジは、美濃33観音巡りで回った大龍寺(だるま寺)が有名だ。もうすぐ真っ白なド…