setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

年寄りの戯言414 豊川大空襲 高校生らが追悼

 8月4日に豊橋東高校と時習館高校が豊川海軍工廠の空襲で亡くなった方への追悼のための式典を行ったことを、ニュースで知った。

 昭和20年8月7日に豊川大空襲があった。78年前の話だ。東洋で一番大きな兵器工場(豊川海軍工廠)が豊川にあり、124機ものB29が3256発もの爆弾を落とした。この空襲で、2500人以上の人が命を落とした。工場には大人たちに混じって多くの子供たちも働いていた。学徒動員で旧制中学(今の高等学校)や女学校から6千人もの子どもたちが働きに来ていた。この空襲で452人の子供が亡くなった。負傷者はこの数倍になるんだろう。


 自分は豊橋東を卒業した。しかし恥ずかしながら母校の先輩で16歳になれずに命を落とした子どもたちがいたことをずっと知らなかった。

 豊橋第二中と豊橋市立高等女子が戦後、豊橋東高等学校になるが、合わせて61人もの生徒が死んでいる。また豊橋中学(時習館)では37人豊橋商業(豊橋商業学校と市立女子商業)が37人豊橋工科(豊橋工業)が42人豊橋高等家政女学校(藤ノ花高校)24人桜ヶ丘高等女学校(桜丘学園)35人豊橋松操高等女学校(今はもうない)44人、他に成章中学2人や豊川中学6人、国府高等女学校18人、豊橋高等実修女学校(私立女子高等学校今は中央高校に)静岡県から来ていた生徒も亡くなっている。

 さらに国民学校(小学校)の高等科の児童も50人以上亡くなっている。国民学校高等科は12・3歳、旧制中学は12歳から16歳、女学校は12歳から15歳の子供である。たくさんの子供までが動員されて兵器を造っていた。また学生以外に徴用工や女子挺身隊(12歳以上の未婚の女子)として強制的に働かせる制度ができ、4万人もの民間人が働いていた。兵隊が700名、工員が1万名、合わせて6万名以上の人たちが海軍工廠では働いていたのだ。

 麻生さんが、台湾で『戦う覚悟』と、とんでもない発言した。本当なんだろうか。終戦を迎えるこの時期の発言とは思えない。残念だ。