setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

瀬戸第一尋常小学校 その4(第三小学校誕生①)

 第一尋常小学校は、次第に人数が増え、第一から第二(深川小)、そして第三(祖母懐小)に分かれていく。第二の深川小ができたときは、一里塚川の南北で校区が分かれた。大正5年に第一と第二の間の雨池に第三の祖母懐小ができた。この第三尋常小学校に全学年がそろうのに3年もかかった。

 (写真は、岐阜市博物館の戦前の授業の様子の再現。)
 祖母懐小学校の60周年記念誌に、次のような当時最初の祖母会小学校の児童になった方の手記が載っていた。

《思い出》

 祖母懐山と雨池と春雨川の三つは、小さい頃の私の全世界でした。生家は、雨池の東にあった中池のほとりでした。二つの池の間に堤があり、径が東西に通じてい ました。

 大正2年には、まだ第三学校は出来ておらず、小学1年生にあがったのは、権現にあり、第一学校といわれていた陶原尋常高等小学校でした。1年生の私にとって祖母懐から学校までの道は遠く、その上、途中で子守り達が群がって通せん坊をさ れ、何度も家に戻り、母に叱られて、また泣き泣き学校へ行ったものでした。

 2年おいて、妹も1年生となり共に通学する様になって、通学が面白くなりました。が、その妹が1年を終えた4月、中池を埋めた処に第三学校が出来ました。と申しても校舎は1棟で、1、2年生のみを受け入れ、妹は2年生として新校舎に入れて貰えましたが、4年生になった私は、依然、新校舎を自宅の裏に控えながら、 遠い陶原の方へ通いつづけねばなりませんでした。

 5年を終った春、待望の増舎がなり、6年生として祖母懷小学校に迎えられる事になりました。そのお別れの式で、陶原の六鹿校長先生が「あと、もう1年だけなのに、里子に出す様な事になって残念です」と涙ながらに挨拶され、私共も、一緒にもらい泣きした光景は、70歳になった 今日でもなお瞼の裏に浮かびます。

 その頃の雨池はまだ健在で、水を満々と湛えていました。

  夏灯し 丘の上なる 新校舎

              N女子

 我が家の義母親系の祖母はちょうどこの時期に陶原から祖母懐にかわったと言っていたことを思い出した。N女子と同時代を送ったんだろう。