setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

ダンプ街道と交通安全観音その2

 昭和44年の新聞に『学校の足元えぐる』と言う記事が載ったと本山中学校の20周年記念誌に書かれていた。


『学校の足元をえぐる』
 せともの町、瀬戸市で、最も良質の粘土が産出される印所地区。採掘のあおりをくって被害を受けているのが、本山中学校の生徒たち。学校を取りまく、粘土の採掘所は約十カ所。露天掘りでポッカリ口を開けた穴が運動場のすぐわきにまで広がってきた。深さ3・40メートルはあろうか。
 採掘所から粘土硅砂を運ぶダンプの 横行が、またすごい。まきあげる砂ボコリが締切った教室に、遠慮会釈もなく舞い込む。採掘所が広がるたびに、通学路も何度か変更された。土砂くずれの危険があるからだ。
 粘土の需要はふえる一方、最近は、学校の敷地下に限る粘土にまで、採掘の目が向けられだしたという。だが、 市当局にはいま、学校を移転する計画 はない。企業保護産業開発優先のあおりで、生徒たちは、きょうも、大変な犠牲を強いられている。

 瀬戸市の陶磁器産業の急激な発展にともなう陶土の採掘も一段と急ピッチに進められてきた。私達もダンプカーの量の増加にともない交通問題・ほこり・騒音による公害に悩まされている。

 本年(昭和44年)の11月には朝日新聞に大きく報道され、朝日ニュース、文藝春秋瀬戸市民ジャーナル等掲載され、全国にその名が知られた。(記念誌より)

 記念誌の年表には、この年の「11月9日に、瀬戸地方中学校体育大会に付き添いのY先生が、交通事故のため死亡」の記事まで載っていた。

 半世紀前は、経済が優先された時代だった。

 瀬戸川は粘土や珪砂で真っ白になっている。その横の狭い道を我が物顔にダンプが走っていた。写真は宮前だ。この部分は特に狭いが、これでも国道248号線&363号線なのだ。正面の建物が国鉄時代の記念橋駅だろう。左に曲がると国道155・248号線で豊田方面に、尾張瀬戸駅方面に行くためには、真っ直ぐ進むと記念橋駅に入ってしまうので道が交差点の中で湾曲しているのも懐かしい。