瀬戸では4番目の瀬戸市立第四中学校が昭和26年4月に誕生した。開校当時は、校舎がないので深川小学校や陶原小学校に間借りをしていた。6月に本山中学校として校名を改め、12月に西印所の山の中に新しい校舎がやっと完成した。はじめは緑の自然に囲まれた学校だった。
ベルト道路という特別な名称を70代の本山中学校を卒業したお年寄りから聞いて調べ始めたベルト道路(その1・その2)。自分の妻も中学校1年生までは通っていたと言うから、昭和30年以降の生まれの人たちは知らないだろう。
学校周辺の山には上質な粘土が埋まっていることから、次から次へと重機を使って山を掘っていく。校舎はグランドキャニオンの中に取り残されていく。生徒たちの通学路は鉱山の中に。その頃の通学路をベルト道路、掘り進められた山のシルエットを見てパン山などの名前をつけていた。
粘土を掘るとなると、当然運ばなければならない。30年代末から40年代にかけ鉱山から粘土工場へと次から次へと運ばれる。高度経済成長期の中だ。瀬戸川は真っ白に、空は真っ黒になっていた。道路は、粘土を運ぶダンプカーで渋滞していた時代だ。
瀬戸の道路はダンプ街道と呼ばれていた。
(その2に続く)