setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

豊川海軍工廠⑤

なぜ子供たちが犠牲になっているのか。『あの日、私の体験』にこの文章をみつけた。

 小学校から戦争教育だった 昭和12年に豊川の小学校に入りました。修身という道徳の 授業では「大きくなったら兵隊さんになる」と答えるのが正解。 女子の将来を聞かれ、手を挙げて「お嫁さん」と答えたら、野戦病院の看護婦が正解だと叱られました。2年の学芸会では 日本軍と中国軍が戦う劇をやり、日本軍の役は壇上をぐるぐる回って「日本兵強いぞ、中国兵弱いぞ」と言って出て来る。中国兵のトップは蒋介石総統で、僕がその役をやらされました。青竜刀を下げて「日本兵怖いある。ぽこぺん、ぽこぺん」「とても勝てん、参った、参った」といって壇上を回って下がるのです。それから蒋介石というあだ名を付けられ、からかわれました。運動会の競技ではアメリカのルーズベルトソ連スターリン、中国の蒋介石、イギリスのチャーチルと書いてある ポールがあり、それを踏んづけて戻る競技がありました。敵愾心を煽る教育でした。第二次大戦が始まると、学校では藁人形作り、敵を刺す練習ばっかりしていました。教わったのは「敵に後ろを見せるな」と「一億玉砕」で、そうしないと戦争に勝てんということでした・・・

 義務教育の中で戦争を教え、敵国に勝つことが当たり前のようにあり、小さいころから兵士になることしか考えてこなかった。