setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

⑲父親について書く

 父親は大正の生まれだ。96歳で亡くなった。小学校を卒業して、菓子屋に修行(いわゆる丁稚奉公)に出た。招集で大陸に行きそのまま満州満州鉄道の機関士になった。
 母は、決められた結婚のために、顔も知らない父親に会いに愛知県からハルビンに行く。船と汽車を乗り継いで移動したという。
 父親は、現地招集として二度目の招集を受ける。退役後も満鉄の機関士を勤め、終戦をむかえる。日本に戻る多くの人を汽車で運ぶ。ソ連軍が攻めてくる中でなん往復もしながら、最後まで残った。機関士はソ連軍にも必要なため大事にされ、シベリア送りにならずに帰ることができた。

 戦時中のことは、父親の口からほとんど聞いていない。聞いても話さなかった。母親から聞いたことがほとんどだ。

 戦後は、鉄道にはいっさい関わらず、あまり人と付き合わず、駄菓子作りをしながら貧乏生活。子供の目からは自慢できる父親ではなかった。
 自分が子供の頃、少年雑誌で弾丸列車の記事がありあじあ号の写真があった。これも運転したのか聞いたことがある。あるとの答え。その時は、自慢できる父親だった。

 もうすぐ終戦をむかえる。20代から30代の一番楽しいはずの時期を戦争の中ですごした父親のことを、ほとんど知らない。実家に帰ると時々当時のことを聞いた。そのときには耳が遠くなっていた。

 でも自分が知っていることを文章にしないと、父親の存在は無くなっていく。
 
 自分は妻の両親と生活した。二人とももう故人だ。我が家は新暦のお盆。もうすぐ迎え火をたく。