setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

戦後の食糧難

 戦後すぐの時代の糧難の様子が。ある先生が当時の教え子たちについてこんな手記を残していました。

 

 ・・・ 履き物は薬草履か下駄で、靴をはいている子は学級へ配給になった靴が抽選であたっ た幸運な子です。女子はみんなモンペですが、モンペもズボンもみなつぎはぎです。当時のおかあさん方の苦労 暖かい愛情がにじみ出ています。

 この子どもたちとはだしでドッヂボールをしました。ドッヂボールといってもゴム製品がないので、お茶の実とサヤヌカ(籾殻)を中につめて、ボロつなをよせ集めて自分達で縫い合わせたドッヂボールでした。

 また、こんな思い出もあります。午後早引をさせてくださいと女の子が言ってきました。わけを聞いてもなか なか教えてくれませんでしたが、午後、山ヘヨーノメを採りに行かねばならぬとのことでした。何にするのか見当 もつかなかったので問い正したら、お米がたりないのでヨーノメ (食用になる若い木の芽)の雑炊を炊くのだと 小さな声で答えてくれました。悪いことを聞いたなと今でもその子の顔をはっきり覚えております。

 学校にウシが飼ってあったのもこの頃です。各地でウシ泥棒が横行していたので、宿直を2人でしてひと晩中ウシの番をしたことも幾度かあります。寒い夜などは、手網を宿直室まで引きこんで、布団の中から手網の手ごたえでウシの存在を確認したものでした。これは当時の若い男の先生の大事な仕事でした。滑稽というか、時と共に流れた世の移り変わりを痛感いたします。

 瀬戸市立下品野小学校の記念誌(昭和48年)に載っていた記事だ。当時は品野町立の小学校だ。戦争中は運動場でサツマイモばかりでなくカボチャもつくっていた。しかも、授業の教科として農作業が入っていたようだ。今の時代では考えられない。