setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

中馬街道の歴史を歩く会その5(泉町の山崩の石碑)

 中馬街道の痕跡を探しながら30名近くの集団は印所街道を北上し、陶祖公園方面に抜ける道に右折。すぐ右の路地を上ると左手奥に泉町の山崩を記した石碑が建っている。

 昭和32年8月7日の大雨のため、瀬戸市泉町で山が崩れ22名もの死者を出した。この30年は高度経済成長に向かい始めた時代で各地で公害が出ていた。瀬戸も瀬戸川は白く濁れば濁ったほど景気が良いと喜ばれた。陶磁器を焼くのに石炭が中心になっていたが、戦中戦後の燃料不足でわずか残っていた木は切られ薪になり、はげ山になっていた。さらに運が悪いことに、崩れた土地が盛土だったため、斜面に建つ家々があっと言う間に土砂に飲み込まれた。

 深川小学校の北側になる。死者の中には3名の児童も含まれる。自分の町内のお年寄りの中に、当時近くに住んでいて友人をなくしたと話された方がいる。

 この時の大雨のため、8月8日には品野でも水害が起きていた。品野川(水野川)が上品野で氾濫し被害を出し死者が出た。岩屋堂も壊滅状態になった。

左:上品野の水害 右:岩屋堂の水害(瀬戸市の市制50周年記念『瀬戸』から)

 昭和30年代までは、瀬戸ははげ山が多く保水力がないため水害が多かった。この石碑は二度と同じことが起きないように瀬戸の街を見守っている。