setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

雨池と三番目の祖母懐小学校

 親子地蔵に関係する伝説の最後の舞台は雨池だった。雨池は祖母懐の地にあった。雨池の横の中池が埋められて、大正5年に瀬戸の第3番目の小学校として瀬戸町立祖母懐小学校が開校した。

 1番目は明治6年にできた東春日井郡瀬戸第一尋常小学校陶原小学校)だ。その30年後の明治36年に2番目の東春日井郡瀬戸第二尋常小学校(深川小学校)ができる。学校ができ始めたころの瀬戸はまだ瀬戸村で3000人ほどしか人口はなかった。明治25年には瀬戸町になり5000人をこえてくる。大正2年にはなんと20000人と人口が激増していく。

 子供の数も当然増えていく。陶原小学校と深川小学校だけでは入りきれなくなり、第三の小学校である祖母懐小学校が大正5年に誕生する。それまでは一里塚川の北と南で校区が分かれていた。その一里塚川沿いの祖母懐に建設された。しかし深川小学校の児童数はその後も増え続け、大正15年に道泉小学校を、昭和10年代には2000人となり古瀬戸小学校をさらに分離させている。

 祖母懐小学校が1年生から6年生まで全員揃ったのは、校舎が完成するまでの3年もかかった。大正5年には1・2年生、大正6年は1・2・3年生、大正7年になってやっと全学年が通学できた。その間は、家の前に新しい校舎を見ながら、遠い陶原小学校に通った子もいた。

 たまたま目にした祖母懐小学校60周年記念誌、見ながらいろいろな想像をしている。