setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

年寄りの戯言491 間違えて覚えていること その2

 瀬戸が反対したから国鉄中央線は多治見・春日井を通って名古屋になった。この説は本当だと信じていた。自分が子供の頃豊橋駅で出会った蒸気機関車。目の前で「ボオーッ」とやられ泣いた覚えがある。自分には怖い存在だった。昔の人が警笛を鳴らしながら迫ってくる蒸気機関車音と振動で瀬戸物がわれてしまうと考えるのは自然だったんだろう。

   

 明治の時代になり日本は文明開化を迎える。明治政府は東海道本線をさらに内陸部には中央線を計画した。東海道本線は海岸に沿ってレールを敷くだけだ。しかし内陸部はなかなか決まらない。当たり前だ、出来る限り平坦なコースを通したい。

 基本的に中山道など街道沿いに通すが、中山道は名古屋より北を通っている。大都市名古屋に向かうコースが問題となる。中津川から多治見を経て名古屋への下街道コース中津川から恵那の谷あいを南西に進み明智・瀬戸を通って名古屋への中馬街道コースだ。

 中馬街道沿いの街は瀬戸を含めて焼き物づくりが盛んだ。当時の有力者たちは鉄道で製品を運ぶことを考え、誘致しようとした。しかし誘致合戦に負けてしまった。その代わり、瀬戸には日本で最初の国営(省営)バスが走った。記念橋駅は日本最初のバスの駅を記念してつけられた名前なのだ。

 中央線は瀬戸を通らなかった。悔しかったんだろう、「あんなもんが瀬戸を通ったらせともんがわれてしまう」と誰かが言ったんだろう。