調べていく中で、深川神社から北上して品野に向かう道が印所街道が中馬街道になったり、瀬戸街道の延長川沿いに品野に向かう街道が中馬街道にもなったりした。いつどのタイミングで変わっていったのか考えている。
今昔マップは、パソコン上で現在と過去を重ね合わせて表示できる。画面をコピーしてペイントソフトで描きこんでみた。
明治初めの中馬街道は、道の駅のすぐ裏から南西に進み、上陣屋に出るて、追分へ。
でも、粘土の採掘で山の中の道はもうなくなっている。でも陣屋や安土あたりで痕跡を見つけることができそうだ。下陣屋からは追分は街道が残っている。
印所の道も変化している。自分が馬方になったと仮定すると、費用を安く、馬の負担が少なく、かかる時間が少ない、道が通りやすいなどなど、考えて通る道を決める。また運ぶ物によっても違ってくる。馬を使うか荷車か、背負うかでもさらに違ってくる。
江戸時代、美濃や品野の窯焼きは瀬戸村に有る尾張藩が設けた御会所を通して商品が流通した。焼き物は必ず今の御会所(今の瀬戸蔵、蔵所と呼ばれた)を通さなければ流通されなかったことを考えると、今の瀬戸街道へ抜ける国道363や印所を通って宮前に抜けるのが自然の道だろう。瀬戸物を扱わずに山や海で採れたものを扱う馬方にすると必要ない。追分に出るほうが近いのだ。
また、瀬戸村の印所と品野村、水野村の境は良質の粘土が採掘できる。掘り返されていて街道筋は雨が降ると歩き辛いだろう。そうなると印所から安戸を通って追分に出る。
明治政府になると流通が自由になる。また道が整備されていく。街道は変化している。自分が勝手に思っていたことが、時代や場所で違っていることだけは確かだ。
今日は、藤井聡太さんが名人になった。おめでとう。素晴らしい。