setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

瀬戸第一尋常小学校 その4(第三小学校誕生②) 

 祖母懐小学校の60周年記念誌には、さらに次の手記が載っていた。第一尋常小学校とは今の瀬戸市立陶原小学校だ。第二が深川小学校で第三は祖母懐小学校。

《対立し合う6年生》

 ずっと前より、第一尋常高等小学校と第二尋常小学校とは、常に仲が悪かったという。子どもが他地域へ行くと、「ヤーイ、第◯学校、シリクサレ」と罵声を浴びせられた。二つの学校の子どもたちは、互いに対立し、万一他学校近くへお使いに 行く場合は、学生帽をかぶらずに行った。

 この仲の悪い第一と第二小学校児童の混合でクラスができたので、学校長も担任も常に気にかけていた。第一学校の方は、「俺の方には、高等科があるぞ」という優越感もあったようだし、運動競技にも、競走意識が強くあった。

 夏休み前に、第二から来たA君と、第一から来たB君とが、些細の事からけんかをはじめた。第二出身のA君は、第二の6年生の応援をたのんだ。翌日、午後の授業が始まった時、第二の児童50名余、授業を放棄して、竹や棒きれ等を持って、 第三小学校北側の土手の上に集まった。各学級担任も、授業を中止し、第二学校のリーダー格2、3名と、A君、B君、級長、副級長を一堂に集めた。

 4、5日後、第一、第二、第三の各学校長協議の結果、3校の児童の代表が握手をかわすことで、この大騒がせのトラブルも終わった。その後、各学校での、厳重な指導があり、「◯◯学校、シリクサレ」など罵声は聞かなくなり、安心してどこへでも外出できるようになった。

 今では考えられないが、自分の子供時代、豊橋だが学校間の子どもの対立はよく聞かれた。中学校には番長というのがいたことを覚えている。昭和30年代だ。この話は大正時代。一里塚川の南北で校区が分かれていたのが、その中間に新しい学校ができた。仲が悪かった子供が急に無理やり同じ教室で生活するようになる。対立しないわけがない。

 郷土の歴史をお年寄りに聞いていると、子供同士の対立をよく聞く。自分の住む今村地区にも似たような話がないか楽しみである。