setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

大正14年の大水害と效範小学校

 效範小学校を前回で取り上げた。今村が旭村から分村して瀬戸町と合併、今村にあった旭第二尋常小学校が瀬戸效範尋常小学校になった。大正14年9月1日のことだ。その数週間前に效範小学校の前を流れている瀬戸川が大暴れしていた。瀬戸市立祖母懐小学校の60周年の記念誌に次の記事が載っていた。

瀬戸市近来の大水害といえば、大正14年8 月15日の洪水を挙げねばならない。前日の午後9時頃から降りだした雨は15日の午前1時 頃から豪雨となり、瀬戸川は勿論、一里塚川、茨川、印所川等いずれも氾濫した。

 一里塚川では蛭子町の三共化学陶器製作所 前で堤防が決壊して家に濁水が流れ込んだ。近くの老婆が浸水に驚き、孫を抱いて裏口に出たところ、足をすべらせ一里塚川に呑まれた。翌日から町内総出で瀬戸川下流を捜したが、老婆の屍体は狩宿の橋で収容された が孫の屍体は発見できなかった。

 この洪水で瀬戸川本流では、橋という橋はことごとく流失し、数多くの家屋は倒壊に 顔した。また陶原小学校も1部流失し、その対岸の瀬戸駅西の京町に至る県道は決壊し、瀬戸電の線路下は洗われて線路が飴のように曲がり、徒歩連絡が3日も続いた。』

 当時の效範小学校の校舎は、現在の位置より西の平町のイトウ内科の辺りにあったようだ。それでも瀬戸川の近くだ。被害があったんだろう。

 学校の記念誌には、地元の歴史が記載されている事が多い。祖母懐小学校の60周年記念誌は自分が瀬戸に来る前の年に発行されている。明治末・大正・昭和の記憶がまとめられている。