setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

年寄りの戯言287 中馬街道を歩く会 番外編 中品野のねこなし皿①

 中馬街道を歩く会で、中品野を通った。上品野村や中品野村では焼き物作りは明治時代まで許されなかった。江戸時代までは同じ品野でも下品野村のみ許された仕事だった。

 明治の新政府になり自由に焼き物づくりができるようになり、上・中品野も磁器生産が始まるが、初めは失敗が多かったようだ。明治末ころから順調に生産できるようになるまで苦労は並大抵ではなかったのだろう。

 高石ともやとナターシャセブンが歌った『瀬戸の子守唄』を田原の友人が思い出して教えてくれた。自分の学生時代、高石ともやは「死んだ男の残したものは」とか「思い出の赤いヤッケ」などを歌っていて岡林信康らとともに反戦フォークで人気を集めていた。

おまえが寝たら ねこなしで  

ロクロを挽いて 何つくろ

ねこなし ねこなし 何つくろ 

ねこなし ねこなし 何つくろ

 

余床(よどこ)の土で何つくろ

きれいな鉢や 皿つくろ

ねこなし ねこなし 皿つくろ 

ねこなし ねこなし 皿つくろ

 

目が醒めたら 見せてやろ 

踊る赤い火 登り窯 

ねこなし ねこなし 窯をやく 

ねこなし ねこなし 窯をやく

 

窯が焼けたら 買ってやろ 

菓子屋を丸ごと 買ってやろ

ねこなし ねこなし ねんねしな

ねこなし ねこなし ねんねしな

 

ねこなし ねこなし ねんねしな

ねこなし ねこなし ねんねしな

 

 中品野でつくられ始めた「ねこなし皿」、寝こなしでつくる皿値段のない皿のことだ。さあ仕事を終えて寝ようと思ったら、隣の工場では明かりがついている。もう少し働こうとがんばっていた。昭和30年代の総理大臣がねこなし皿の話をして国民を鼓舞したと聞いたことがある。

 中品野の陶工たちは成功した方もいるが、あきらめて馬方になる人も少なくなかったようだ。