setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

年寄りの戯言312 瀬戸を歩く 記念橋②

 1873年のウィーン万博で瀬戸の製品が世界で有名になる。やがて輸出が始まり、作ればつくるほど儲かる時代が始まる。瀬戸での輸送は馬でしかなかったんだろう。

 明治政府は中央線の路線をどこにするか計画に入る。瀬戸もその計画の中に入っていた。中馬街道沿いに明智から品野・瀬戸を経て名古屋に行くコースと、中山道沿いに来て恵那から多治見を経て名古屋へ行くコースの2つの案が検討されたようだ。誘致合戦をしたが、結果的には多治見を通るコースに決まる。瀬戸は悔しかったのだろう。その後、瀬戸は大量の焼き物を運ぶために、名古屋城のお堀の中を走り堀川まで走る瀬戸電がつくられる。

 鉄道省は、東海道本線中央本線を結ぶ計画をたてる。瀬戸を経由して多治見を岡崎とを結ぶ計画、岡多線だ。鉄道を通す前にまずバスが走ることになる。1930年(昭和5年)12月20日、岡崎⇄挙母(今の豊田)⇄瀬戸⇄多治見さらに瀬戸⇄高蔵寺間に省営バスが走った。日本で最初に省営バスが瀬戸を走ったのだ。バス路線はいずれ鉄道路線(岡多線)にかわるはずだった。

 記念橋駅と特別な名前をつけられたこの駅前に、元は焼き物を納入・検品・積み出しをする尾張藩が作った御蔵会所前につくられていた。御蔵会所の地は町役場や警察署、その後市役所、市民会館に、今は瀬戸蔵になった。

  記念橋駅は、瀬戸川沿いの三角地帯につくられた。国道248号線は記念橋を南から北に渡り右折する道だ。国道363号線は瀬戸川ぞいに東西を走る道だ。しかし川の南側の西に向かう一方通行の道は、記念橋駅の東で左折次の信号で右折して川岸に戻らないといけなかった。