setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

年寄りの戯言558 瀬戸市は昭和4年生まれ

 町内で、人生の先輩方と話し合った。瀬戸音頭と瀬戸市歌のCDを瀬戸市役所から借りてきた。瀬戸音頭は曲が流れるとほとんどの方の体が自然に動く。音頭の『ほ~んに瀬戸瀬戸よいところ~瀬戸は火の町、土の町〜それ土の町~』はほとんどの方が口ずさむ。盆踊りで必ずみんなは踊った。この地域では效範小学校の運動場で毎年行われてきた。コロナ禍で数年中断していたが今年は無事やれたようだ。どういうわけか瀬戸市歌は平成の時代には歌われなくなった。

 瀬戸音頭も瀬戸市歌も昭和24年の市制20周年記念でつくられた。ということは瀬戸市昭和4年に生まれた市なのだ。この年は1929年、世界史で習った世界恐慌が始まった年だ。あくる年の昭和5年には瀬戸も多くの工場が休業状態になったようだ。

 昭和26年に水野村を、30年に幡山村を、34年には品野町が瀬戸市に。歌がつくられた昭和24年は幡山村・水野村・品野町はまだ瀬戸市になってはいなかった。

 自分が瀬戸に来た昭和53年には小学校の鼓笛の演奏で瀬戸市歌が使われていた。深川小学校出身の方は、お正月は登校して瀬戸市歌を歌って紅白饅頭をもらって帰ってきたと聞いた。この歌の歴史を調べてみるのも面白いだろう。

 同じ時代に今の川西という地に住み始めた。子供会という活動の中で仲良しになった。男性は野球チームを組んで練習し、女性は婦人部として活動してきた。町内で運動会や子供会のキャンプ等など一緒に活動してきた。

繊細な人形を焼き物でつくっていた昭和

 瀬戸市は、昭和4年に町から愛知県下では5番目の市になった。20年後の昭和24年は、瀬戸の焼き物作りの盛んになり、宵越しの金は持たぬという職人たちのまちだった。『ほ~んに瀬戸瀬戸よいところ~瀬戸は火の町、土の町〜それ土の町~』