setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

年寄りの戯言563 PHEV 稲武の民俗資料館ちゅ〜まへ

 PHEVで久しぶりに関谷酒造に来た。田口は満車、稲武に。吟醸工房のすぐ横に『ちゅ〜ま』と名前がついた稲武の民俗資料館がある。1・2回見学していたはずだが、真剣に見ていない。酒を買ってからついでに見学しようと考えてしまうので、結局や寄らずに終わる。また次にしようとスルーしてしまっていた。いい加減な自分だ。今日は先にと、酒を買う前に入館した。

 自分が思っている中馬街道は、飯田から恵那を通って柿野、品野そして瀬戸を通って名古屋城下に行く街道だ。『ちゅ〜ま』も中馬街道では稲武から足助、挙母を抜けて名古屋城下に向かう街道だ。中馬街道の元々の道だった。別名『塩の道』だ。

 人間が生きるのに欠かせない塩が信州に運ばれた。三河湾で作られた塩が矢作川を通って足助近くまで舟で運ばれ、馬で足助の塩問屋まで運ばれる。足助で詰め直され馬で飯田方面へ向かう。

 飯田から名古屋へは恵那・瀬戸を経て街道が人々には便利だったんだろう。しかし信州と関西やお伊勢さんとの行き来は、西三河からの鈴鹿や津へ渡る海路が近い。三河湾の塩や海産物を運ぶのもこのコースが一般的だったんだろう。

 そういえば昨日が忠臣蔵の討ち入りの日だった。昭和時代では12月14日前後は、昔からテレビや映画では忠臣蔵の映像が頻繁に流れていた。悪者として常識となってしまった吉良上野介は、この地方では素晴らしいお殿様として知られている。赤穂も塩だ。赤穂の殿様浅野内匠頭とはライバルで二人の確執がこの事件のきっかけだとすると、吉良の殿様は良い人で、見方が180度変わる。

 三河湾は製塩で有名だが、吉良ではあまり塩は採れなかったらしい。矢作川の河口付近が中心だったのか?塩の道、12月14日、赤穂浪士の討ち入りから妄想してしまった。