十三塚について瀬戸ペディキュアには、次のような話が載っている。
今から400年ほど前、長久手というところで豊臣方の軍勢3万が、1万8千の徳川方の軍勢に後ろから攻められて、みじめな負け方をした時の話じゃ。
敗れた豊臣勢の侍は、てんでばらばらに逃げたそうな。戦に勝った徳川方の侍は口々に、
「相手の侍は、一人も逃がすな。」
と、追手を出して、くまなく探したそうじゃ。でも、豊臣方の侍の何人かは、厳しい囲みの中を逃げ出し、そのうち十三人がなんとか瀬戸まで、相手に見つからずに逃げ延びたそうじゃ。
「しっかりせよ。」「なんとか落ち延びよう。」
と、お互いを励まし合いながら逃げて、、
ようやく瀬戸にたどり着いたときには、のどはからから腹はペコペコ。そこで近くの村人たちの家にかけこんで、
「食べ物を少し分けてくだされ。」「水を飲ませてくだされ。」
と口々に頼んだそうじゃ。しかし村人たちは、逃げてきた侍を助けたために、自分たちが徳川方からにらまれたらたまらないと考え、侍たちに食べ物や水はいっさい与えず、それどころかよろいや刀を取り上げて、村はずれで殺してしまったそうじゃ。やがて村人たちはいつとはなしに十三人の侍のことなどすっかり忘れていたのじゃ。
数年後、村に亡霊が出たり、庄屋になった人が不思議な死に方をしたり、田んぼでは米の不作が続き、畑では野菜がとれないといった不思議なことが起こったそうじゃ。
「どうしたことだろう。」「何のたたりだろう。」
と、村の人々は話し合っているうちに、長久手の戦いで逃げてきた十三人の落ち武者のことを思い出しました。
「あの時、侍たちにひどいことをしたたたりじゃ。」
と悔やんだが、今となってはどうすることもできず、せめてあの時の侍のとむらいをしようと、十三のお墓をつくり、みんなせ拝んだそうじゃ。
それから後、いつの間にかこのあたりを十三塚と呼ぶようになり、8月24日を
「侍の霊を慰める日」に決め、村人たち総出で盆踊りをしたりしておまつりをするそうじゃ。
尾張のところどころに、長久手の合戦の話が伝わっているが、みな悲しい話ばかりじゃ。
十三塚とは、死者供養、境界指標、修法壇としての列塚を築いたものをいう。一般に十三塚は村落へ悪霊等の侵入を防ぐための鎮護祈念の祭祀所と考えられ、その形状は仏教の十三仏信仰思想から考えられている。
昔話の多くがこうした悪霊や死者の魂をしずめるための話が多い。
左側の石仏が十三塚地蔵なんだろうが、地域の先輩に確認しよう。