中馬街道に関する昔話は多い。先に記事にした市場屋の火事も中馬街道下品野村で起こった話だ。行基上人の話もいくつかある。全宝寺の西に大慎という場所があった。過去形で言うのはもうこの場所はなくなったということだ。粘土鉱山に変わってしまったのだ。全宝寺から西は瀬戸の地名で陣屋あたりまでしか道が残っていない。
今から1200年も前のことです。人々は、伝染病や自信・日照りなどの天才が続いて、たいへん苦しんでおりました。
「去年は、大雨で品野川があふれ、米がようとれなんだ。」
「今年は今年で日照りが続き、田んぼの水が枯れてひび割れてきた。このままでは、稲はみんな枯れてしまうぞ。」
「それにこの頃はわけの分からぬ流行病が広まり、死人も出るほどじゃ。」
「困ったもんじゃ、困ったもんじゃ」と、村人たちの嘆くのが、あちらこちらに見かけられました。
そんなところへ、仏の教えを説きながら全国を旅しておられる都の偉いお坊さんが、数人のお弟子さんを連れて通りかかれました。お坊さんは、人々の苦しみの様子を耳にされ、村の様子や周りの土地の様子を調べて歩きました。
次の日から、お坊さんはお経を唱えながら、お弟子さんと水の出そうな所に井戸を掘り始めました。しばらく掘り進むと、水がとめどなくわき始めました。この様子を見ていた村人たちは驚きました。それからは、お坊さんの指図に従って、たくさんの井戸を掘り、川の流れを変える工事まで始めました。その上、日照りに備えて、周りの山裾にため池をつくりました。
やがて、村人ともに汗を流したお坊さんたちの出発の日が訪れ、村人たちは別れを惜しみ、みんな村外れまで見送っていきました。
「お上人様、これからの私達の励ましになるようなものを残していただくわけには、まいりませんでしょうか。」
「旅の途中で何もないが、これを残しておこう。」と言って、持っていた槇(まき)の木で作った杖を地面に突き刺していかれました。不思議なことに、その杖は逆さまのまま根がついて、ついには見上げるばかりの大きな木になったということです。
これは、品野から陣屋に通ずる旧街道(中馬街道)の途中にある『大槇』というところのお話で、この槇の木は、逆さに立てたのに根付いたところから『さか槇』とも呼んでいます。
この偉いお坊さんは、奈良の大仏をつくるために、全国をまわって人々の強力を求めてあるき続けた『行基上人』であったと伝えられています。
瀬戸の岩屋堂にも、行基上人が修行のために大きな岩の中にできた洞の中に滞在していた。聖武天皇が重い病気で苦しんでいることを知り、天皇が早く治ることを祈願してオオカヤの木を切り、仏像を3つ作った。薬師如来と2つの観音菩薩。今も岩屋堂には仏像が残っていて多くの人がお参りに来ている。
岩屋堂も品野なのだ。昔話とはいえ、実話に近いものだろう。きっと信州方面から中馬街道と呼ばれる前の 古道を行基様は歩いて見えたんだろう。