瀬戸川の效範橋(效範小学校の南)の近くには、水神様が祀られている。水神様とは字のとおり水にまつわる神様だ。左側は明和4年(1767年)、右側は明治時代に建立されたようだ。
『1767年(明和4年)に起きた明和の大洪水では、「矢田川が長母寺と宝勝寺の間を押し破った『稀なる洪水』で『後世まで亥年の洪水』(『天保会記』)といわれた大洪水であった」とされ、また「庄内川でも被害があり、吉根村では観音寺はじめ五軒が流失、『田十一町余』が砂入し、不毛の地となった」とされています。
またこの洪水によって、「長母寺北の山がくずれ」て矢田川の流れが北向きに変わったとされています。』
とある。明和の大洪水という名前が付けられていた。
瀬戸のでもこの時、赤津や山口、瀬戸の東北部の丘陵地で豪雨が発生した。そのために矢田川・瀬戸川が大洪水となり、流出家屋や溺死者・行方不明者が多数あったようだ。
瀬戸川は非常に短く街中を東から西に下っていく。瀬戸では山の斜面に焼き物を焼くための窯をつくった。窯の周りの木はことごとく燃料の薪として切られていた。山には木が成長するだけの時間は与えられなかった。ということは瀬戸の山は木が生えていない状態になる。そこに豪雨。
何本もの川が集まりながら、大曽根で庄内川と合流する。庄内川の上流も美濃焼の産地だ。
多分瀬戸川のこの水神様のいわれを知っている人はほとんどいないだろう。豊橋の水害をキッカケに、今いる瀬戸での水害を調べて多くのことに気づいた。江戸時代の先人は水神様を建立することで未来に発信していた。
書きかけの記事を先に出してしまい申し訳ありません。③が当然先です。情けない。