setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

年寄りの戯言607 地域の方に教えてもらえることばかり 

 元々自分は瀬戸以外のよそ者なのだが、よそ者なりに感じるものが多い。言葉などは特にだ。よそ者だから違いを感じることも多いのは確かだ。

瀬戸蔵ミュージアムに展示してある瀬戸電

写真アルバム『瀬戸・尾張旭の昭和』より

 先輩方は、瀬戸線はせとでんなのだ。しかもひらがなの『せとでん』なのだ。子供の頃からなじんできた言葉なんだろう。そして記憶の中に残っている瀬戸の電車は、名鉄瀬戸線赤い電車ではなく、緑の電車だ。

 先日、追分付近に住まれている方と話すチャンスを得た。自分の町内に住んでいる先輩方は、若いころの娯楽は映画だった。『55円に行こう』が映画を観に行こうの言葉だった。3本立ての再上映の映画が観られた。追分にあった映画館がどこにあったのか、彼女に聞いた。市役所の東の路地沿いに今は駐車場になっている場所がある。ここに『瀬戸シネマ(キネマ)』と呼ばれる映画館があった。町内の先輩に教えてもらった映画館と一致する。彼女の言われるにはその映画館には当時、芸術家が集まって語り合っていたようだ。

 品野に職場がある頃、大人も子供も『瀬戸に行く』という言葉があった。もともと   品野は品野町という瀬戸とは別の町だった。昭和34年に編入され瀬戸市になったのだ。だから自分は瀬戸に行くという言葉は、単純に瀬戸に行くという行為だと考えていた。多くの人生の先輩方と話していると、どうも年配の方が『瀬戸に行こう』は『宮前に行こう』に繋がっているようだ。飲み屋街が屋台が映画館がそして料亭が狭いこの地域に集まっている。

 元瀬戸町に隣り合っていた品野・水野・赤津・幡山・今村は仕事が終わりみんなで宮前に行こうになる。映画の3本立が瀬戸では多かった。夕方映画館に入ると午後11時過ぎに終わる。月に2回ある給料日には映画館が満員、飲み屋はいっぱい、バカ道路は屋台が並ぶ。昭和2・30年代の宮前は、月2回は瀬戸物祭りのようににぎわっていたのだ。今の人には考えられない良き時代があった瀬戸である。