幕末の短期間に多くの地震に見舞われた日本。特に1854年(嘉永7年)11月4日の駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源と安政東海地震(M8.4)。その32時間後には紀伊半島から四国で安政南海地震が発生した。地震による被害も大きかったが、津波による被害はもっとひどかった。
『地震と災難』の冊子には、三河の被害も多く書かれている。「三河の国の被害は地震の被害が沿岸部にあり、特に渥美半島太平洋岸に大津波が押し寄せ船や漁具を流出させるなどの被害があった。三河湾内にも津波は押し寄せ、油ケ淵の水を海に流す新川(新堀川)の水門を破損させ、大浜湊も津波が襲来したと記録に残っている。吉田城や刈谷城やその城下町は地震による被害、河川沿いなどは堤が破損する被害が確認される」とある。
そして豊橋の太平洋岸の伊古部では、「特に断崖状になっている大羽根山が横1丁程(約109m)、長さ8丁程(約872m)沖に崩れ出たとある。城下村や、三河湾岸の江比間・宇津江村(田原市)から家屋や道、田畑、堤被害の報告がされている」とある。
その伊古部には『震災鎮めの石碑』が、また伊古部の東の西七根村御厨神社には『津波絵馬』があるという。
嘉永7年だが、7月9日の伊賀上野地震、そして11月4日・5日の2つの巨大地震、1年前の黒船の来航まであったため、元号が安政になった。しかし皮肉なことにあくる年の安政2年10月に安政の大地震(安政江戸地震)が発生した。
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