setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

昭和も令和も働きなさい そしてお金を納めなさい

 大学4年で就活で大阪に行った。試験を受けに行ったのだ。梅田だったのか大阪なのか分からない。大阪に行ったのは今から50年以上前のことだ。

 新幹線から降りて、人生(といってもその頃まだ20年)一番ビックリしたのが、大阪の人は歩くのが速いのだ。エイトマ〜ン、エイトマ〜ンなのだ。動く歩道を歩いているのだ。横に並んでいても、すぐにどんどん前に行ってしまう。

 昭和30年代農業は耕運機が普及してきた。農家は農作業が本当に楽になった。ところが、楽になったかどうかと農家の方に聞くと、ローン(昔は月賦と言った)を返すために農作業時間が減った分、別の仕事をするとのこと。機械化で楽になるはずだった。動く歩道を走るような速度で歩いていく。その分余分に働かざるを得ないのだ。

 最近「週休三日」が導入がされるという。休みが増えて、果たして楽になるんだろうか。副業を認めているということは、空いた時間は働きなさいという意味だろう。

 昭和の時代には所得倍増政策や日本列島改造論などの言葉があった。現在は、新しい資本主義など理由のわからない言葉で、国民からお金を巻き上げていくんだろう。国民が働くと国が富む、そして国民に還元されるはずが、なんだか国が富まない上に国民の金が一部の人に消えていく。どこかが間違っているのではないか。今日はネガティブな記事になってしまい申し訳ない。日本のライドシェアや週休三日のシステムは楽しいはずだが、何か暗いことしか思い浮かばないのが残念だ。

 

瀬戸のお地蔵様(親子地蔵②)

 バカ道路に安置されている3体のお地蔵様、親子地蔵だ。磁祖加藤民吉の妻と幼い子供が、民吉に会わせてもらえず最後は雪の中、雨池に身を沈める悲話だ。二人の魂を鎮めるためにこの地蔵は建てられたという。しかし前回も書いたがこの事実はなかった。この地蔵様たちはバカ道路(戦争末期に延焼を防ぐために家を壊した)をつくる時に街角にあったお地蔵様が集められ合祀されたんだろう。

 この瀬戸の伝説の最後は雨池(あまいけ)だった。今の祖母懐交差点の東側だ。祖母懐の地に瀬戸町では第3番目につくられた祖母懐小学校が大正5年から昭和40年まであった。雨池を一部埋め立て校舎と運動場を作った。昭和40年に西の秋葉山の上に移転する。

 雨池伝説は民吉の妻子の悲話ではなく、鎌倉時代、加藤四郎左衛門景正が諸国をまわって瀬戸の地ですばらしい土を発見し窯を開いためでたい話がふさわしい。昔は「うばがふところ(姥ケ懐)」と呼ばれていたのが現在の地名にかわったと言われる。雨池から東にかけての周辺で主に茶器に最適な土が採れた。一里塚に住む方が祖東中学校の新校舎建設でボーリングをしたところ、地層に多くの細い横穴が何本もあったと話された。昔の陶工たちは地面の中を潜って土を集めたんだろう。

 雨池があった祖母懐は、陶祖加藤四郎左衛門景正(別名春慶)が祖母懐土を見つけ窯を開き、そして瀬戸の人々に焼き物づくりを広めていった場所だ。

 4月20・21日は陶祖まつりだ第63回せと陶祖まつりポスター

瀬戸のお地蔵様(親子地蔵①)

 西本町から東本町に向かう途中に不思議な広い道がある。通称『バカ道路』だ。和菓子屋の宝屋さんから北の深川神社(宮前)に向かう広い道だ。今は道路の中に駐車場ができて不思議さは感じないが、自分が来た頃はただのだだ広い道だった。戦争の末期に延焼を防ぐために家々を壊してきたためにできた空間だった。

 瀬戸のバカ道路(宮川駐車場)の西の歩道、新世紀工芸館を背中にして3体のお地蔵様が祀られている。瀬戸の磁祖加藤民吉の伝説に関係したお地蔵さんだと記されている。

 自分が瀬戸に来た頃(45年前)は自分も含めて皆さん民吉の伝説を信じていた。民吉のお祭りは9月第2土・日、国道を通行禁止にして盛大に行う。40万人以上のお客さんを集める。4月は陶祖まつり、9月は瀬戸物まつり。宮前・バカ道路周辺は人の波であふれかえる。瀬戸川沿いは陶磁器の販売のテントが、バカ道路は露天商のテントが並ぶのだ。大人は瀬戸川沿いの店で出物の焼き物を狙う、子どもはバカ道路でりんご飴やチョコバナナを食べながら射的や輪投げで楽しむ。末広商店街の東にはサメ釣りもあった。

 雨池の伝説

 九州より製磁の秘法を探り、瀬戸 村に帰った民吉をたずねて、見るもあわれな親子連れの旅の女がたどりついた。これは民吉の行方を 探して、はるばる九州から訪ねてきた妻子であった。しかし民吉は瀬戸に家庭をもっており、且又磁器製造の新技術者として、その名 声は益々盛んになっていたので、民吉は自分の体面を保つため、会ってもくれなかった。大いに悲しん だ旅の女は哀れ雨池に身を投げて果てた。この九州妻の悲しみの涙 が雨となって、民吉を偲ぶ「せともの祭り」に降るのだとか。雨池 を埋めて学校を建てた祖母懷小学 校の行事にはよく雨が降るという。(祖母懐小学校開講60周年記念誌より)

 瀬戸の3番目の小学校として祖母懐小学校が建てられたのがこの雨池の前だ。

 瀬戸の名勝として有名だったんだろう。南北150m、東西200mもの大きな池で西側には柳の並木があったという。池の畔には、うなぎ専門店「喜松亭」やかき氷店が2店もあった。今の祖母懐の交差点にこの池はあり、祖母懐小学校は山の上に移転していく。この交差点の北に昔あった祖母懐湯で一日の汗を流し、浴衣着姿の人々が集まって、縁台を並べ将棋や碁などをしながら涼んだ場所でもある。瀬戸ではボートが浮かび市民の憩の場所だった。

 この伝説、普通に信じられていたように思う。しかしこの説は否定されている。江戸時代でも互いに納得の上に磁器製造方法が伝えられたことが常識となっている。否定はされているが、今でも親子地蔵として悲劇は語り継がれているんだろう。

 この雨池の横を北東に進むと郷を通って洞に抜ける。

芸術家と芸術家

 瀬戸市の文化センターで手嶋譲二氏の「懐かしき昭和の瀬戸」という写真展が開かれている。昭和30年第40年代の瀬戸がテーマだ。版画家の水野ア一さんと町内の御婦人方を誘い早速出かけた。

 会場に入ってまず感じたのは、どの写真もきれいなのだ。手嶋氏は若い頃からカメラを持って時間を見つけては撮影に出かけていたようだ。昭和30年代と言うとフィルムの一眼レフ、ニコンかキャノンか、それとも大判のカメラなのか。やはり手嶋氏の写真を撮るセンスなんだろう。羨ましい。

 中日新聞の地方版に写真展の紹介で上の写真が載っていた。蛭子湯だ。自分が瀬戸に就職し近くに下宿したので数年間はこの銭湯にお世話になったのだ。版画家の水野ア一さんもこの近くで生まれ育った。子供の頃は蛭子湯の常連だったようだ。

 二人の、いや三人(奥様も写真家)の芸術家が出会った。手嶋氏は以前からア一さんと会いたかったそうだ。芸術家がうれしそうに話をしていた。

 栄国寺の地蔵祭りだ。子どもたちの間で大人気だったちばてつやさんの「ハリスの風」が登場するのが面白い。

 手嶋氏の奥様は栄国寺の今の住職さん(いくほうさん)とはどうも同級生らしい。さらに今日一緒に行ったH子さんとは陶原小学校、家も近く、水無瀬中へ行くのも権現山の中の道が通学路だった。K子さんの旦那さんとは職場の関係で顔見知り。話してみるとみなさん昭和時代につながっていたことがわかった。世界は狭い。

 手嶋氏の『蛭子湯』(一番風呂)の1枚の写真に惹かれて集まった。この写真展は4月4日から7日(日)までの4日間しか開かれない。関心のある方は、瀬戸の文化センター1階のギャラリーで開かれている。

藤四郎まつり

 陶祖祭が、20・21日に行われる。瀬戸で就職してすぐ盛大な祭りがあった。何のお祭りなのとわけわからないままむかえた。その頃は、当然、土曜日も仕事だった。夕方帰宅すると街の中が大騒ぎしていた。

 新人の頃はバカ道路近くに住んでいた。仕事になれず疲れてはいたが、雰囲気に誘われて行った。広い広い道路(当時は駐車場として整備されていなかった)は屋台でイッパイ。人の波。おまけに道路の東側に大きなテントが貼られてお化け屋敷が興行されていた。

 このお祭り、実をいうと名前が何年も曖昧のまま過ごしていた。今も調べないと確定できない。まず藤四郎まつり?陶祖まつり?で迷い、『とう』という音で迷う。何年かしてやっとわかってきたが、加藤四郎左衛門景正(かとうしろうざえもんかげまさ)なる人物が瀬戸の陶器づくりの祖ということで、陶祖を祭る。景正の通称が藤四郎。まつりも漢字(祭り)なのか漢字でも『り』が付くのか、『まつり』とすべて平仮名なのかも曖昧になる。

 正式には『せと陶祖まつり』というようだ。今年は2週間後の20・21日。第63回になる。

 

公園で花見を

 今日は、木曜日の町内での定例会。先輩方と1週間に1回の『元気だよ』と顔合わせをする。今回は花見の真似事を計画。天気が不安だったが、朝には晴れたいた。

 午前中に下見をしたら花は三〜四分、五分にはまだだろう。少し騒げば花はもっと開くだろうと騒いだ。

 桜の花の下に自分を含めて20名前後の年寄りが集まり『カンパ〜イ』と声を合わせた。久しぶりに昼から飲めた。腰を痛めている方、足が自由に動かない方、目が悪くなり手を引かれながら参加してくれた方。楽しんでくれたはず。

 来年の花見は、世代の若い連中も参加できる形態にしたい。そのためには休日にしないといけないのだろう。

キロバイト知らないでしょう

 久しぶりにパソコン屋に行った。昔みたいに大須ではない。我が家の近くには昔コムロード今はアプライドというパソコン屋がある。しばらく前まではグッドウィルもあったが数年で閉店した。どちらの店名も懐かしい。

 半世紀近く前にマイコンから始めて、DOSなどというマシンにも手を出したが、所詮努力をすることが嫌い。ベーシックすらわからなかった。ソフトはかいぞ◯版に頼っていた。周辺機器も合わせて高級車1台分はつかったんだろう。

 はじめはカセットテープが記憶媒体だった。

 FD(フロッピーディスク)の登場は、画期的な媒体だった。黒いペラペラの8インチもあったが、すぐ5インチのプラスティックのケースに入ったFDが出始めた。320キロバイトも記憶容量があったのだ。大須に行ってまとめ買い。その後10メガバイトHDDに変わるが、高価だった。独身時代は車を持っていなかったので生活できた。

 アプライドに行ったのは、データのバックアップ用のハードディスクの購入のためだ。HDDではなくSSDだ。歳をとってもまだ違いはわかる(つもりだ)。だが、4Tの容量が爪の先の大きさしかない製品があった。しかもお値打ちだ。

 自分が選ぶわけがない。理由は簡単だ。こんなに小さいのはすぐ失くす。同じものがいくつもあると見分けがつかない。猫の玩具にされたらたまらない。

 結局昔ながらのポータブルの1Tになった。自分は一度に処理できる能力がなくなってきている年寄りだ。キロバイトという言葉が懐かしい世代なのだ。確かキロ→メガ→ギガ→テラ、約千倍ずつだ。鉄腕アトムができるまでもう少しだ。十万馬力(途中から百万馬力)で世界を平和にして欲しい。