今日は、自分の住んでいる地域(今村)の歴史の勉強で公民館に行った。講師は、地域の郷土史を研究されている方だ。昨年度は今村の東半分の話をされていた。昨年度は知らなかったので参加していないのが残念だ。今回は西半分の話になる。名鉄瀬戸線の水野駅より西側の話だ。昔の今村と呼ばれているころの川西嶋だ。
昔は瀬戸川の西側を総じて川西嶋と呼んでいたようだ。北側に中馬街道が東西に通っていて根の鼻あたりが急坂ということで難所になっていた。旅人や馬方を相手にこの街道筋に店ができ民家が増えた。反対に南側は川沿いということで田んぼが多く作られていた。現在の川西町は元はほとんどが田んぼだったのだ。
中馬街道が通っていたのは川西嶋の北側のはずれ。尾張旭に入る根の鼻は、難所といわれた新居松原だと教えてもらえた。三郷の東側も新居になるのだ。もっと違う位置を考えていた。
難所とは鉄道にも言える。講師の先生は、『せとでん』という言葉で最後まで通された。版画家の水野氏が、「名鉄」と言う人は少ない、「瀬戸線」という人が大半。そして「瀬戸電」という人はほとんどいなくなったと言われた。瀬戸電でも水野氏の言われるのは『せとでん』とひらがななのだ。緑色した左右に揺れながら走ってくる電車だ。自分には大学時代に偶然通った守山の高架下をくぐるとき怖さを感じた電車だった。50年前の話だ。妻は緑の電車の終わりごろ乗っていたようだ。駅ではドア(ではなく扉)を自分で開けないといけない。今の人には考えられない。それが『せとでん』なんだろう。
講師の先生に聞いた新居松原、根の鼻駅の話は次回、その2に書きます。