setokouchanの日記

とうとう72歳、今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記&記録として毎日記事を書いています。

安城市歴史博物館『地震と災難』20 三河地震②

 一 昨年9月、ニュースで三河地震のことを知りすぐに震源地である幸田町に飛んでいった。深溝断層だ。その後妙喜寺へ。予備知識もないまま向かった。

 西尾の妙喜寺の地割れを見て、和尚さんにも話を聞くことができた。地割れの部分を覆うように小屋を作って保存をされていた。和尚さん曰く、三河地震は戦時中ということもあり報道がほとんどされなかった。反対にアメリカでは、一面に大きく取り上げられていると言って、新聞を見せてくれた。何千キロも離れているアメリカが次の日には地震の事実を知り報道されている。日本は負けて当たり前だった。

 特別展の冊子には、『地震だ!』という題の絵が載せられていた。浄玄寺(安城市)に残されていた史料だ。説明には『都市部の児童を近郊へ移動させた学童疎開昭和19年(1944)7月には本格化した。』『三河地震発生時、疎開児童も被害を受けた。西岸寺(安城市福釜町)では疎開児童1人が死亡した。他にも幡豆郡三和村(西尾市)の妙喜寺、福浄寺、安楽寺では、本堂が倒壊し疎開児童31人、教師1人の死亡者を出した。昭和20年1月13日の三河地震一月前の19年12月7日の昭和東南海地震で持ちこたえたお寺は、この地震でもろくも壊れてしまった。

 昭和東南海地震では、半田市で学徒動員の生徒たちが、この三河地震では疎開児童が被害を受けた。この特別展では、児童たちの被害よりも復興に向けた地域の努力が中心にまとめられていた。戦時中ということがあり、金がない労働力がない中での各市町村自治体の努力の史料が多い。警防団の名前は聞いたことがあるが、数少ない地域の労働力を工作隊として集めたり、労務報告会(労務会)などを編成したなど初めて聞く名前が出てきた。さらに県からは緊急復旧工事勤労挺身隊が派遣されたともある。

 安城市の博物館のため、西尾の様子は詳細には書かれていない。地震の被害の中心は西尾だ。昨年11月30日から今年の2月まで西尾の一色学びの館で『三河地震から80年 地震と戦争』の企画展をやっていた。1月中旬に行ってきた。次回はこの企画展をまとめたい。