setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

第5回せと歴史探訪講座 戦争と建物疎開①

 瀬戸の宮前の『バカ道路』と呼ばれるバカ広い道路、南北の200mほどのどん詰まりの道だ。4月の陶祖祭や9月のせともの祭にたくさんの屋台が出て存在感があるが、普段は駐車場になっている。この幅広いどん詰まりの道は、元は家があり強制的に退去させられた部分だ。昭和20年5月までは50軒もの家が建っていた。

 日本に空襲が日常的に行われるようになり、3月には名古屋での大空襲があり名古屋城も燃えてしまった。延焼被害を防ぐために家壊しが始まった。引っ越しの命令が出て2週間後には住んでいた家がなくなった。自分は知らなかったが『建物疎開』とか『戦時疎開』などの名前がついている。瀬戸に住んで50年近くになる。さすがの自分もバカ道路がなぜあるのかある程度知っていた。

 歴史講座で武藤氏は歴史の専門家だ。バカ道路は宮前の地下街も含めて建物疎開の結果だという。5月までは店が立ち並んでいたが、更地に変えられたようだ。でも話はここで終わらなかった。瀬戸にはバカ道路ほどの広さはないが多くの箇所で家が壊されていったと言う。

 昭和40年代の瀬戸の中心街だ。現在とは道路状況は違う。(地図では国道は広く描かれてはいるが実際は細い。)自分が瀬戸で就職した頃、不思議な道路が多かった。太い道があっても急に細い道になる。生まれ育った豊橋は道路行政が進んでいて碁盤の目のように道路がつくられていた。瀬戸は道路行政が遅れていると勝手に思い込んでいた。

 瀬戸の広い道路と思われる部分は、建物を強制的に撤去された部分だった。豊橋は焼け野原になって道路を作り直した結果だ。反対に瀬戸は、建物を壊した部分だけが残ってしまったのだ。ある意味戦争遺跡でもあるんだろう。