濃尾地震は明治24年に起きた巨大地震だ。愛知県が昭和54年にまとめた『濃尾地震生き証人の記録』に瀬戸の方の体験談が載っていた。加藤〇〇さんは、瀬戸川沿いに住んでいた。
『・・・電気ははじめからなく、あんどんをつけ、ローソクであったので(役場はランプであった)その心配はなかった。震源地は、 岐阜の山の中だと聞いていた。
お寺の墓、石どうろうはみなたおれた。
完全に家の中で一家全部が普通にねたのは、一ヶ月半すぎた様におぼえている。はじめの十二日間は、必要なものをとりに家へ、ゆれのすくない時、入るだけで、全員ずっと外で寝ていた。勿論、食事は川の土手で用意してたべた。その時、家へはいった感じは、二階はとてもこわくておれなかった。ゆれがひどく、やっともちあげてたてた。階段もこわくてあがれなかった。
この間、空はいつもドンヨリにごっていて、カラッと晴れていなかった。何といっても、まだまだ周囲は田や畑があり、人家もくっついていなくて、にげ場は一パイだったのでよかったが、近代の街の様子を見ると、あんな地震がきたら、街はゴチャゴチャで、道もとても歩く場がなく、にげ場もなくて、人間はどうしたらよいか、わからなくなってしまうだろうと思う。
家から大分はなれた佐久間町という所は、人家が一パイあったが、そこで、皆が外へにげ出した時、一軒の中から、すっぱだかの母親が幼児をかかえて外へとび出したけど、みんながねまきをきてたので、恥かしく、きるものをもとめて家へ入ったとたんに家がつぶれて、その人は死んでしまったときいている。だから、ねる時はいつでもとび出せるように用心しなきゃいかんという事だ。
当時は新聞もなく、たまに号外屋が役場へ来たのを、お父っつあんがみせてもらった位だったそうです。地震のことは半年位、号外もなかったとのことです。
一番困ったのは、のみ水、ドロドロの井戸水でもあったでよかったけど、今の町の人は水道だから、メチャメチャ、ゴチャゴチャにこわれた街のまん中で、一体、人々はどうなるかと思うと心配だ。』
1891年だからもう130年以上も前の濃尾地震の体験談だ。幼児をを抱えた母親が家に戻り家の倒壊で亡くなったと記憶していた。瀬戸は地盤が粘土質なので地震は起きないと自分は勝手に思い込んでいたが違っていた。