昭和19年(1944年)12月7日の昼過ぎに発生した昭和東南海地震、一月後に起きる三河地震と同様に戦争中のため報道管制が敷かれた。調査もほとんどされなかった。安城の博物館は少ない史料を探してまとめていた。地震の翌日午後4時には軍隊や警防団が出動し県道の片づけ行い、午後10時には鉄道や道路が開通している。
また安城に住んでいた女性の日記として『岡崎市の病院へ行き、東岡崎駅へ向かい、電車に乗ろうとホームに出たときに「ゴトゴトゴトゴト地震だ皆駆け下りた」当日は家に帰れず翌日帰宅した。後に近所の家が3軒倒れ、自宅は座敷の戸が全部はずれ、家が傾き、壁が落ちるという被害にあった。また、自宅近くの東海道本線で線路の土手道が陥没し、汽車が止まり、1200人が安城第4国民学校(安城東部小学校)で宿泊した・・・』
冊子に載っていた震度を表した地図だ。最大の死者を出したのは半田市の188人、次いで名古屋南区の91人だ。3番目が幡豆郡の60人だ。半田と南区は軟弱な土地(埋立地)に造られた軍需工場の倒壊が原因だろう。震度7となっているのが港区、冨貴、福地村とある。福地村は今は西尾市になるが当時は幡豆郡だ。名古屋大学の調べでは、福地村だけで21人もの死者を出し半分近くの家が倒壊している。さらに悲惨なのは一月後の三河地震での被害だ。229人の死者、そして多くの家が壊れ、2つの地震で1054戸もの全壊、村の全戸数の86パーセントにもなるという。下の表は名古屋大学院の環境学研究科での調査結果である。