濃尾地震は死者7880人(うち愛知県2638人)、負傷者は21329人(愛知県7705人)、住家全壊93421戸(愛知県39093戸)、家屋消失7669棟(愛知県210棟)と大きな被害をもたらせた。揖斐川上流の根尾谷断層が動いた地震であるため岐阜県での被害が大きいが、愛知県も北部の被害が大きかった。体験者の話には、岐阜県の笠松町では町全体が焼失したとの話もある。
愛知県は、『濃尾地震生き証人の記録』を昭和54年にまとめ冊子化していた。子供時代に濃尾地震を直接体験された人を中心に当時の様子を聞いていた。
『地震は始めから大きく揺れ、時間もかなり長かった様に思います。当時くびり池(現在の鏡池)の上手に大人が三人で手をつなその大松が濃尾地震の思い出いだ位の太い松の木がありましたが、しわっーしわっーと大きく揺れていかにも恐ろしいと思いました。』
『・・・昼間は何んとなく落ち着かず、あちこち歩き廻りましたが、其処此処に七、八寸もの地割れがしていて、それを飛び越え様として母にひどく叱られました。
大変に恐ろしいと思った事は、家へ帰って間もなく、猫ヶ洞の上池の堤が切れ、続いて下池の堤も切れて、どっと水が流れて来たことです。山の上から北の方を見ると白水がどうどうと流れ稲も何も見えなくなりました。
その水の為に傾いたり、倒れたりした家もありました。桶やたらい等も流れて来て・・・』
最初に書かれていた方の話に、瀬戸の今村と同じ状況だったことが分かる。埼玉大学地理学研究室の今昔マップに、明治24年の古い地図があった。猫ケ洞池は現在の本山の北の山の間に造られているのが分かる。ため池は農地よりも標高が高くないと意味がないが、堤が壊れると水害を生む。証言者はきっと当時は本山近くの村に住んでいたのだろう。
自分の住む今村も北の山間にため池が多くあった。明治24年の濃尾地震で鴨ケ池をはじめとする池が決壊、今村の田畑は被害を受けるとともに、水源を失った。国庫からの援助により高い堤防が築かれた。そのことを記念してこの治水碑が明治27年に建てられた。元は效範小学校にあったが、校舎の移転や区画整理等で平町公園に移された。
当時の今村は現在の尾張旭の狩宿、三郷村などと合併して八白村となっていた。その後新居村とも合併し旭町となっている。地図を見ると濃尾地震ではきっと尾張旭の方が大きな被害があったのだろう。記録を探してみたい。