setokouchanの日記

とうとう71歳になりました。今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記代わりに毎日記事を書いています。観音巡りはいつのまにかやめてしまいました。

歴史散歩⑱政だワッショイその3 𠮷田橋

 瀬戸川にかかる多くの橋は焼き物で装飾してあるものが多い。𠮷田橋も織部で焼かれたタイルが貼られている。

 A氏は、この橋をつくったのは役人のためだったという。普通ならば追分と言う字を入れるはずだが川の南側の新しくできた吉田と言う字が入れられた。現在の東吉田町には、尾張瀬戸税務署や瀬戸警察署、瀬戸保健所、元家庭裁判所瀬戸出張所(今は名古屋法務局瀬戸出張所)などの国や県の役所が多くつくられた。名鉄瀬戸線(元瀬戸電)に乗って各役所に通勤していた役人が通行していた橋だ。東・西吉田ともに今村の地域だった。

 雨が降ってきたので𠮷田橋の下に入ってA氏の話は続く。ここは橋脚が多く形も変わっている。現在はコンクリートで埋められているので貫通はしていないが、昔の橋脚はアーチ形に穴が開いていた。道路の拡張で橋も広げられた。向こう半分が新しい橋脚だ。橋脚が多いのは、大正14年に大水により瀬戸川のほとんどの橋が流されたことが関係している。しかも陣屋川が瀬戸川に合流するために水量が一気に増える。そのため川幅を広げて頑丈な橋脚で橋を守ると言う。さらにすぐ下流には堰をつくって流量を調節している。見ると三つの段差で自然に水の流れがコントロールされるようだ。

 A氏は、川原に茂っている(自分から見たらただの草)植物を指さして、「これは葦(あし)だ。しかし名前が『悪し(あし)』と聞こえるため、『よし』と呼ぶようになった。最近の方は知らないので刈ってしまう。ここに再び茂っているので安心した。」実際の言葉は違ったが内容は多分あっているだろう。自分も葦について言葉は知っているが、実際意識して見るのは初めてなんだろう。

𠮷田は瀬戸ペディアでは田で書かれている。)