setokouchanの日記

とうとう72歳、今住んでいる瀬戸市について、また生まれ故郷の豊橋について思ったことを文字や写真に。日記&記録として毎日記事を書いています。

PHEV師勝へ 昭和の学校⑤ 学校給食とアルマイト

 昭和の学校にあったバケツはジュラルミン製だった。ジュラルミンはアルミニウムに銅やマグネシウムが添加された合金だ。似たような金属名でブリキとかトタンなどがあった。鉄に錫をメッキしたのがブリキで亜鉛をメッキしたのがトタンだということを中学で学んだ。学校の給食で食器はアルマイトだった。アルマイトとはアルミニウムの表面を酸化させたものだという。比較的安価で軽くて丈夫な金属なんだろう。弁当箱にも使われていた。

 自分が小学生だった60年以上も昔、中学校は弁当だったが、小学校では給食を食べることができた。上の写真は半田市の博物館に展示してあった昭和30年代の給食だ。なんとシンプルだった。下が北名古屋昭和日常博物館の展示していた給食の食缶。自分が子供時代の豊橋でも似たようなものを使っていた。右奥の食缶が大嫌いだった脱脂粉乳の容れ物。味がなく不味いのなんのって、好きと言う子はほぼいなかったはず。口の周りに残る膜が面白かった。多分高学年になった頃ビンの牛乳に替わったと思う。

 写真は食器の横に貼ってあった献立表。わら半紙にガリ版刷り、しかも月木の週2回のみだ。主食も書かれていない。戦後の学校給食の始まって間もない昭和20年代前半の給食でご飯やパンは家から持ってきたようだ。自分の住む瀬戸市の93歳のお年寄りに聞いた話だが完全給食が始まるまでは学校の先生やPTAの母親が給食づくりをしていたと言っていた。瀬戸市の小学校では昭和22年にミルク給食、あくる年に補助給食に26年に完全給食になっている。この献立表は昭和25年頃だろう。

 昭和34年に豊橋の小学校に入った自分は、給食で1番嫌いだったのはチーズだ。食べ物が少ない時代でもあの味にはなじめなく献立表を見てチェックしていた。カレーやクジラの竜田揚げは人気だった。